A氏 イギリス人 20代 男性
飛行機で タイを経由し ミャンマーへ
日本文化好きのイギリス人青年A氏が、ロンドンを離れてミャンマーまで来たのが2019年10月末日。彼はまずミャンマー国内をあちこち観光して回り、それから11月半ばから開催される、ゴエンカ師の瞑想センターDJでの10日間リトリートに参加した。
その後今度はS瞑想センターに移り、そこで私と宿舎で隣人になった。
A氏はロンドンでは主に大乗仏教のティク・ナット・ハン系の瞑想センターに出入りしていたというが、仏教に対する興味が鬼のようにあって、チベット仏教だろうが禅だろうが、リトリートが開催されればとにかく参加し、様々な方法を試してみたという。
そのA氏が一番お気に入りだったのが、ミャンマーにある各種ヴィパッサナー瞑想だった。
それでミャンマーには最低3か月は滞在するつもりで覚悟を決めてやってきた。
A氏の話だと、イギリスでは現在瞑想人口が急増していて、学校で生徒たちに瞑想をやらせるぐらいにまで盛んになっているという。人間形成に力を入れるところは、まだ小学生のうちから足を組ませて瞑想させるというから驚きだ。
そのような環境にいたため、A氏が仏教に興味を持つようになるのは当然の成り行きだった。
しかし彼は今度は、仏教を通して更に日本文化にまで興味が出てきたらしい。
そのため私が日本人だと知ると、嬉しそうに私の部屋まで押しかけてきて、今まで話す相手がいなかった日本に対する思いの丈を、洗いざらいぶちまけてくれた。
坐禅して 俳句捻って お茶を飲む
A氏は様々な仏教書を読むうちに、俳聖と呼ばれるある日本の俳人の事を知った。それが350年ほど前の江戸時代中期に、東北、北陸と旅をしながら句を詠んだという、あの松尾芭蕉だった。
「彼の作品は悟りの境地を表わしている。悟りの境地とはいわゆる『わびさび』の世界、つまりノンデュアリティ(非二元)な自分と周囲の環境と一体化している境地を詠んでいるんです。なぜなら彼の作品には『私』とか『自分』の事が一切出てこない。これは彼にはもはや自我がなかった事を意味している」
※)BBCが解説したわびさびについて
https://www.google.com/amp/s/www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-46396621.amp
なるほど、松尾芭蕉と言えば「閑さや 岩にしみ入る 蝉の声」とか「古池や 蛙飛びこむ 水の音」という句が有名だが、確かに主語も所有格も出てこない。「私」はない。
では一方でそれから百年後に活躍した、やはり巨匠と言われる小林一茶の方はどうかというと、彼の有名な句は「やせ蛙 負けるな一茶 ここにあり」とか「我と来て 遊べや親の ない雀」だが、これを見ると確かに「一茶」とか「我」とかが入っていて、周囲の環境と一体化していない事が判る。
自分と周囲とを分断して見ているのだ。
「俺、詩を書いたりするの好きだったんですよ。それで詩を通して自我を落としていくというか、修行していく方法があるという事を知って、俳句が好きになったんです。瞑想と共にこれをやっていこうと思いました」
そういう訳でA氏は、何かあるたび心の中で一句詠んでいるのだという。
何とも高尚な趣味と言うか、それが彼の修行のひとつでもある訳だ。ちなみに芭蕉の俳句は英語ではこうなる。
An old silent pond...
A frog jumps into the pond,
splash! Silence again.
「古池や 蛙飛びこむ 水の音」
彼は一句詠む時には必ず抹茶を飲みながら頭をひねるというから、かなり本格的に俳人に成り切っている様子がうかがえる。
こんな大人びた趣味の持ち主は、今の日本の20代の若者の中には滅多にいない。いや、老成していると言うか、若い者がこんな事をやっていたら奇妙にすら思える。
だがそれもA氏がやると、不思議とカッコよく決まるのだ。
それだけではない。彼は日本料理もお気に入りで、よく日本レストランにも行くという。
私は日本レストランより、インドとか中華の方が好きだから、ここまでくると日本人より日本人らしいのかもしれない。
外人に 日本文化を 教わった
そのようなA氏の日本文化への深い理解を聞いて、私はこれまで全く関心がなかった日本の伝統についての認識を、すっかり改めざるを得なくなった。
「日本人がずっと伝え続けてきたものは、周囲の環境と自身とが分断されていない、非二元の境地、禅定、ジャーナの境地、悟りの境地だったんだ」
これは恐らく俳句だけではなくて、茶道や華道、書道なども『わびさび』とか言うからには、ちゃんと気づきながら一挙手一投足を動かす事によって『自分』と動きとが分断されずに、動かす主体のない動きだけになって、つまり色受想行識の五蘊が自ら働いているだけの状態になって、行為する事を目指しているに違いない。
いや、これは動きだけではなく、観賞のしかたもそうだ。
勿論見る方はその対象と一体化して見る訳だ。
『わびさび』とはつまりその「見る主体のない」観賞法という事なのだろう。
まあ、これはあくまでも私の受け取り方であって、実際には違うのかもしれないが。
日本では武道でも何でも古くから伝え続けられているものはみんなそうだ。
自分と周囲の環境とが分断されず、一体化し、自分を動かす主体のない状態になった時に、人間が本来持っている本当のパワーを発揮するという教えを伝えているのだ。
この動画を見る限りでは、身体を動かそうとする主体がある限り『無心』になった人、つまり我がなくなって五蘊の働きだけ、因縁の働きだけ、宇宙の働きだけで生きている人には、絶対叶わないようになっているようだ。
「そういうのが日本文化だったんだ!」
A氏以外にも私は、よく外人さんたちから「日本文化が好き」と言われるのだが、今まではてっきり日本のアニメとかゲームが好きだという意味にしか受け取っていなかった。
だが、A氏の話を聞いて、それが全くの勘違いだった事に気がついた。
そればかりか私は今までずっと、日本に古くから伝わるものは皆「現在では使えない、古い時代の迷信じみた古臭い習慣」だと思い込んでいた。
そして外人さんたちが古臭い事を好んでやっているのを見て「西洋文明に疲れた人々の東洋的なものへの憧れ」などと鼻で笑っていた。
「うわ!バカ丸出しなのは俺の方だった!自分の国の伝統文化なのに全然何も判っていなかった!外人さんたちの方が日本の事をよく知ってる!」
そんな感じでA氏は、私に日本人が何百年も昔から伝え続けてきたものの本質について教えてくれたのだ。
私もまさかこんないい事をイギリス人青年から教わる事になろうとは夢にも思っていなかった。
このように日本文化については、実は日本人よりも外人さん、特に白人さんたちの方が詳しかったりする。
だから瞑想センターなどで日本通の外人さんがいたら、しっかり教えて貰った方がいいかもしれない。私のように日本の伝統文化を見直す事ができる。
しかしなぜ今の日本は、そんないいものが昔から伝わっている事を忘れてしまっているのか?
まったく宝の持ち腐れと言うしかない。
もったいないからフルに活用した方がいいと思うのだが。
わびさびで 自然を受容し ありのまま
門松や おもへば一夜 三十年
さまざまの 事おもひ出す 櫻かな
花の雲 鐘は上野か 浅草か
松尾芭蕉
「だから当然瞑想をする時も、芭蕉的な見方をするよう心がけてます。つまり自分の趣味で偏った見方にならないよう、全てを受容するようにしている訳です。受容すると言っても俺の場合は、瞑想中に何か見えたり聞こえたりしても『OK』とただそれを認めてやるだけですが。しかしそれをやると嫌な事を思い出しても全然腹が立たないんですよ。逆に自分の好みで見ると怒りや嫌悪感に苛まれる事になる」
うーむ、言われてみれば確かにそうだ。
芭蕉の句には自分の好き嫌いみたいな我見が入っていない。ただそこにある光景をそのまま詠んでいるだけだ。価値判断も自分なりの解釈も何もない。
これはマインドフルネス瞑想に求められる態度そのものだ。
こんないい瞑想の手本があったなんて、今までちっとも知らなかった。
そうか!イギリスの仏教徒たちはこんないい事を勉強していたのか。
どうりで彼らは瞑想についてよく知っているし、進歩も早いと思った。
調べてみたら英語のわびさびの本はたくさん出ているではないか。
私も彼らに遅れをとらないよう、わびさびについて勉強しておこう。日本語の本は出ていないのだろうか?
また、芭蕉の句が瞑想のよき手本になる事も判ったし、私も芭蕉の句をもっと読んでみたくなった。日本語訳は出ていないのだろうか?
あれ?
「そうですよ、物事を芭蕉のようにありのままに見るためには、見るもの聞くもの感じるもの全てを受容しなければなりません。人間にはどうしても『俺は偉い、カッコイイ』という思いや、望みや理想がたくさんありますから、普通に見たのではそれらの思いとぶつかって、自分の意に叶ったものしか美しいと思いたがりません。しかし物事を受容すればそういった我見が出てきませんから、その物とひとつになって見る事ができます。それがありのままという事であり、その時に本当の美を感じる訳です」
いいな、わびさび!
俺も一度イギリスまでわびさびを勉強しに行くか!
私はその時A氏の話を聞いて、すっかり今まで持っていた美意識が覆され、初めて聞くその美についての考え方に傾倒していた。
新しい考え方だな・・・これからはわびさびの時代になるな・・・・・きっと・・・・・
そのような感じでA氏は、10日間という短い期間ではあったが、隣人の私に様々なインスピレーションを与えながら、S瞑想センターで物事を全て芭蕉のようにありのままに見る事ができるよう、修行して過ごしたのであった。
そしてA氏はまた次の瞑想センターへと向かうためにS瞑想センターを去った。
彼の予定はどうやら最初は10日間ずつの短い期間であちこちの瞑想センターを訪れ、色んな方法を試してみるつもりのようだ。
今度はどこへ行くのか判らないが、とにかくやる気は満々だ。
だが、希望に胸を膨らませながら次の目的地に向かったA氏ではあったが、その先には幾多の苦難が待ち受けていようなどとは、その時は夢にも思っていなかったのだ。
なぜならA氏がS瞑想センターを去ったちょうどその頃、2019年の12月半ば頃は、中国では武漢を中心に、新型コロナ肺炎のウィルスが感染を拡大し始めていたからだ。
コロナでも クーデターでも 修行する
A氏がロンドンを離れてから4か月後の2020年3月、ほとんどのミャンマーの瞑想センターは、新型コロナ肺炎の感染拡大を防ぐため、施設を閉鎖した。
それまでずっと瞑想センター内に滞在していた修行者には修行の継続を許したものの、新規で外部から修行に訪れる者には施設内への立ち入りを一切許可しなかった。
だから、私の様にそれまでどこかの瞑想センターに滞在していた場合は修行を継続できたが、もし旅行などで瞑想センターにいなかった場合は、瞑想センターに受け入れて貰えず、帰国せざるを得なくなった。
私はこの時A氏がどこにいるのか判らなかった。
私の方へは連絡も何もなかったので、もしかしたらA氏は帰国せざるを得ない組に入ってしまったのではないかと思っていた。
また、その時運よく瞑想センターに残れたとしても、翌2021年の2月1日には軍事クーデターが起こってしまったので、ミャンマー中が大混乱に陥り、その際に危険を回避するために帰国した修行者も多かった。
そんな状況の2021年2月半ば、そういう訳で私は、このようにすっかり大混乱状態になってしまったミャンマーでは、もはやA氏がどこかの瞑想センターで修行しているなどとは、全く思えなくなっていた。
「見るものも 聞くものも全て 受容する」
ただ、事ある毎に、A氏が言っていたそんな話を思い出していた。そしてその都度
「彼もツイてないな、こんな時期にミャンマーに来るなんて。あれだけやる気満々だったのにまったく可哀想だ」
などと思っていた。
だが、そんな時だった。
突然A氏からメールが届いたのだ。
「S瞑想センターを出てから、一点集中のP瞑想センターの地方支部に移ったのですが、ここに留まったまま一年以上経過しました。今ミャンマーは大変な事になっていますが、ヒロさんはどこにいますか?」
何と!てっきり帰ったものだとばかり思っていたA氏は、しっかりまだミャンマーに残っていたではないか。
それもあの後もずっと修行を続けながら。
それでもA氏が今いるのは、集中型の瞑想をするP瞑想センターだ。
一点に集中するのだから、彼がやりたかった全てを受容するヴィパッサナー瞑想とは別物だ。
試すつもりで行ったのかもしれないが、コロナのお陰で閉じ込められたのだろう。
まさかそのままそこに1年以上もいる事になろうとは。
「A氏がまだ頑張っているとは思わなかったよ。私は今シャン高原にいる。大変な事になったが、気をつけて修行してくれ。くれぐれも危険な場所には近づかないように」
そのようなやりとりを最後に、久々にコンタクトを取ってきたA氏からの連絡は再び途絶えた。
私は彼が本来やりたかった方法で修行できずに不満を抱えているような気がした。
軍政に 掴んだ自由 奪われる
それからのミャンマーはご存知の通り悲惨な状況に陥った。一般市民は軍事政権に反対し、連日に渡って激しい抗議デモを全国各地で繰り広げた。
また一方の市民の抵抗に手を焼いた軍は、非情にも強硬手段に訴え、デモ隊の鎮圧のために無抵抗の市民に無差別に乱射し、1300人近い非武装の一般人を殺戮した。
更にそれに加えて一般市民の間に新型コロナ肺炎が広がった。
軍事政権は市民の弱みにつけ込み、重症化した患者に酸素ボンベを一本10万円で売りつけ、嘲笑した。
ミャンマーは仏教の国どころか、まるで地獄絵図そのままの惨劇があちこちで繰り広げられていたのだ。
だが、外の世界でそのような狂気の惨劇が繰り広げられている間も、瞑想センターの中にいる修行者たちは、いつも通りに修行を続けていた。
いや、気持ちを外の世界に奪われないよう、注意しながら修行し、平静さを保たなければならなかった。
私が再びA氏にコンタクトをとったのは、クーデター発生から10か月経った12月(2021年)の初めの事だった。
ミャンマーではどこに行くにもコロナワクチンの接種証明書が必要になり、役所が無料でワクチン接種を始めたのだが、彼のいる町ではどうなっているのかを聞きたかったのだ。
久々にメールを送ると彼は
「ご心配なく。こちらでも近くの診療所で、中国製のワクチンを無料で打って貰えます。アメリカ製は100ドルも取られますが。俺は打ってないっすけど。打たなきゃ瞑想センターに居られないというのなら仕方ないけど、でもそんな決まりは今のところはないので無視しています」
などという返事がきた。どうやら向こうでもとりあえずワクチンの方は大丈夫のようだ。彼が敢えて打たないだけで。
しかし彼はまだ相変わらずミャンマーで修行しているのか?
だが彼がずっとやっているのは、一点集中の瞑想だ。
本来の目的だったヴィパッサナー瞑想とは違うのだが、そちらの方は大丈夫なのか?
不満はないのか?
「ああ修行の方なら絶好調ですよ!それよりも俺はコロナには感謝してるんですよ。これがなかったらあちこちの瞑想センターを短期で転々として、3か月だけのミャンマー滞在でロクに瞑想もマスターできずに帰っていたでしょうね。しかしこれらがあったからこそ瞑想センターに閉じ込められて、じっくりひとつの方法でやるしかなくなって、ここまで来れたんだと思っています」
おやっ!意外だ?彼は修行の事では何も不満を言わないぞ。そればかりか修行に打ち込めたと、コロナには感謝までしている!
これは一体どういう事なんだ?
そしたらその時、A氏がいつも言っていた事を思い出した。
「全てを受容する」
そうだ。彼は受容したのだ。
ヴィパッサナー瞑想をやりたかったものの、現時点ではそんな事を言っている場合ではない。そんな事を言ったら不満しか出てこない。
だから目の前にある事に全力を傾ける事にしたのだ。
「なるほど、しがみついていた思いを捨てて心を切り替えたのか!」
ではその結果どうなったか?
驚くべき事に何と!彼は逆に困難をバネに成長してしまったではないか!つまり逆境を味方につけてしまった訳だ!
「なるほど、不満なんか言ってられない状況に追い込まれると、人というのは変わるものだな」
私はそんなA氏の変化にすっかり感心していた。
逆境を 味方につけて 乗り越える
そういう訳でA氏は、現段階でミャンマーに来てから2年間ずっと修行を継続している事になる!!
確かにそれだけひとつの方法に打ち込んだら、理解が深くなるのも当然。
そもそもA氏がこのような困難な状況下でも立派に修行を続けていられる背景には、やはり彼の全てを受容するという強い信念がものを言っているのではないか?
そうだ!彼は以前言っていたように、全てを受容する事で逆境を味方につけ、困難を乗り越えてみせたのだ!有言実行とはこの事だ!これは凄い!驚くべき事実だ!
困難な状況を全て受容し、逆にそれをバネにして瞑想修行を継続してみせたA氏。
その執念には本当に敬服せざるを得ない。
彼が来たばかりの頃に会っている私としては、どうも彼は瞑想よりもむしろ「その修行」をするためにこそミャンマーまで来たように思えてしかたなくなってきた。
そういう訳で、私はこの調子ではA氏の修行はまだまだ続くと確信した。
この先何があっても彼の事だから受容し、克服していくのだろう。
これは面白い事になってきた。
この先彼はどうなるか?
期待のホープという奴か?
いずれにしても彼の事はこれから先の楽しみにさせて貰おう。
私がそんな風に一人で盛上がっている時、またA氏からメールが送られてきた。
ふむふむ彼は今度は何て言ってくるのか?
彼からのメールは本当に楽しみだ。
などと一人でブツブツそんな事を言いながらメールを開いてみると
何と!そこにあったのは!
「俺、実はこっちの瞑想センターに来てから彼女ができたんですよ。それで彼女の地元を離れたくなくなってずっと帰らずにいました。コロナには本当に感謝です。コロナがなかったらあちこち転々としてばかりいて彼女には遭えなかった。また、彼女の地元に留まりたくてずっと同じ方法で修行したお陰で、ひとつの方法を深める事もできた。俺は何をやっても、直ぐ違う方法を試してみたくなって続かないんですが、本当に彼女のお陰で初めてここまで長続きしました。クーデターなんか全然気にならなかったです」
困難も 彼女のお陰で 気にならず
まあ、何でもいい。
いずれにしてもA氏は成長を遂げたのだ。
他人がとやかく言う問題ではない。
※またしばらくの間修行に入りますので、次回はまた間隔が開いての更新になります。何卒ご了承ください。