私たちは何をするにも計画を立て、目標を持つ必要がある。しかしそれが望んだ通りになるとは限らない。望みが叶わなければそこから落胆や失望、怒りが生じる。だから望んでいる通りになるものと期待してもいけない。要は自分の状態をいいようにコントロールしようとしない事だ。
😃
修行者
私はギターを弾くのが好きなのですが、弾きながらの瞑想もありですか?
長老
勿論ありだ。気づきがある限りは瞑想になっている。一日中気づいているために、何が役立つかを見つけるのはいい事だ。私はコーヒー好きなので、在家の頃は喫茶店での瞑想を日課にしていた。
😄
修行者
私には自身についての理想があり、それに反する時は自分を責めます。自身を色眼鏡で見ているのでしょうか?
長老
あなたは見るプロセスと見られるプロセスとを区別する必要がある。そこには自身を批判的に見て責めるのと、それに気づいているのと2つの心のプロセスがある。
瞑想中には2つの心がある事がわかる。一つは何かを見たり聞いたり反応したりする心で、もう一つはそれに気づく心だ。気づく心の方には色眼鏡がなく、賢く見る事ができるかもしれない。その心で自己を批判的に見て責める心のプロセスを見るといい。
😆
修行者
瞑想中は何かを探すのではなく、そこにあるものを見るようにしています。
長老
正解だ。そして良い事も悪い事も全て認識するように。瞑想は穏やかで創造的で芸術のようなものだ。決して木を伐り倒すような力のいるものではない。蟻は拳で殴る必要はなく、指で弾くだけで十分。
感覚器官が何かを知覚すると、心にはその感覚についての概念が生じ、思考や感情が生じてくる。通常はその感覚や思考に引き込まれるが、それに気づけば認識される。そして「美・醜」とか「旨い・不味い」などと概念化された感覚との間に距離が生じ、引き込まれずに観察できる。
😈
修行者
概念的世界と現実世界との違いについて教えて下さい。
長老
物事を「善悪」「優劣」などと価値判断し、永続的で満足のいく、思い通りになるものと思っているのが概念的世界の住人で、物事の無常・苦・無我の性質を理解しているのが現実世界の住人という事になる。
概念的世界の出来事は概念同士一致し、現実世界の出来事も現実同士一致する。例えば「私は怒っている」というのは概念的世界であり、「私」と「私の怒り」という概念は一致する。一方の現実世界では、「気づき」と「誰のものでもない怒り」となり、現実同士が一致する。
😋
修行者
瞑想中に生じる対象はたくさんあり過ぎて、追うのに疲れます。
長老
その通り、多くの対象を追うとそうなる。しかし気づきを通して対象を見れば、常に対象は一つ、気づきだけになる。気づきを通して見るとは、気づきに気づき、認識を認識する事。そうすれば疲れず、安らげる。
修行者
それはメタ認知という事ですか?どうすればできるのですか?
長老
気づきに気づく、認識を認識する事は難しくない。ただ「今、何を知っている?」と自問すればいい。六門からの感覚を見ようとすると心が対象に向かうが、気づきを見ようとすると対象が心に来る。
質問に答えるウ・テジャニヤ長老
😍
気づきの瞑想の修行者は現実の世界にアクセスできるが、そうでない人々は思い込みや固定観念、先入観などの幻想の世界に住んでいる。精神が成熟すればするほど幻想から醒め、苦しみが和らぐ。それが悟りの世界の扉になる。そしてそれが修行者とそうでない人々との違いになる。
😎
気づいてさえいれば、瞑想中に音を聞いてもいいし、それを楽しんでも構わない。むしろそれは効果的な事だ。音を楽しみ、楽しんでいる事に気づき、全ての音にそれを適用できる。そしてそれは「気づいているか?」と自問しながらやっている限り、音に巻き込まれてしまう事はない。
😏
私たちは「私」や「善悪」「優劣」などの概念に縛られた幻想世界と、概念のない現実世界との二つの世界に住んでいる。幻想世界は「私」がいて固定的で意味に満ちているが、現実世界は常に変化していて意味を持たない。幻想に苦しむ時は、直ぐに気づいて現実世界に移行する事だ。
😓
修行者
気が沈んでいる時に瞑想しても大丈夫ですか?
長老
私は鬱病の時にやっていたが、正しい考え方で瞑想していれば大丈夫。疲れていたり、心が重かったりしても、それを変えようとせず、単純にその事に気づき、何か期待しても、それに気づくだけという態度でいれば問題ない。
😖
修行者
いつも気づくようにしていたら、自分への信頼感、自信がついてきました。
長老
何かをするために自分の意志、強さ、動機を使うと、それらは更に強くなる。活動の機会を得て本当に活き活きしてくる。それが自信につながる。自己を拠り所に修行すると自信がつくというわけだ。
生活を充実させるのに、外部の財や物、他人などに頼らなければならない時は、自己の持てる能力を十分に発揮できないため、自らの能力を信頼できない。しかし気づきによって智慧を獲得し、実際に心身の機能を最大限に活性化させる事で充実感を得れば、自己への信頼感が生じる。
😘
心配しても何も上手くいかないが、十分な智慧がないうちは心配ばかりが心に浮かぶ。だが、それも単なる心の活動の一つにすぎない。心配な「何か」と「心配」との間のプロセスを何度も見る事だ。そのうち心は心配をやめる。心配の原因が見えてきて、不要な事だとわかるからだ。
😽
心が衰えるのは、ネガティブな思考や感情が原因だ。しかしネガティブな思考や感情に従わず、常に気づいている事を習慣にすると、年齢に関係なく、心はパワフルになる。気づいている時はいつでも、私たちが思っている以上に心を育て、強化している事になるのだ。
👻
「私の家」「私の車」「あの人は『私』の事を非難した」などと、見るもの聞くものに「私」と執着した時と「私」と思っていない時との感情の生じ方の違いを観る。恨みや不安も自然のものなのに「私の」と私物化した時に苦が生じる。この法随観が苦しみを簡単に終わらせる。
長老に質問する修行者たち
😜
瞑想中に対象を見る時は、集中し過ぎると心は複数の対象に気づく事ができない。そして貪欲さや怒り、妄想などに吸い込まれやすくなる。より広い視野を持つためにも軽めに気づき、対象から離れた方がいい。これは貪欲さや怒り、妄想などから離れるためのテクニックでもある。
😡
心の中で善心を育て不善心を育てないようにすると、他人を見ると慈しみを感じ、苦しんでいる人には憐れみを感じる。また、上手くいっている人を見ると喜び、困難な時でも平静でいられる。智慧があると貪欲さや怒り、嫌悪感が生じる隙がなくなり、更に気づきがその状態を維持する。
😤
修行者
悲しみは嫌悪感というのがわかりません。大切な人が亡くなった時の感情は憐れみではないのですか?
長老
憐れみとは思いやりで、相手の幸せを願う心。善心だから決してそれで苦しむ事がない。嫌悪感はありのままを受け入れない心。もし悲しむのであればそれは嫌悪感になる。
通常は嫌悪感とは、非常に不快なものを避ける激しい感情を言うが、瞑想では微かに現実を押しのけるような場合でもこの言葉を使う。憐れみの一番の敵は悲しみ・嫌悪感であり、思いやりには決して悲しみが漂う事がない。憐れみは善心で、悲しみは不善心で、この二つは別物である。
😧
非二元論は悟りを開いた心の見方だ。それは心身に起こる感受や思考などの体験と「私」とを分離せず、何の判断も加えない見方だ。気づきと対象だけがあって「私」はなく、知られる事が全てであって、それ以外に価値はない。何が起こっても「私」と対象とに分離される事はないのだ。
😨
瞑想が最も効果的に行われるのは、対象に判断も解釈も加えず「私の」ものとも思わず、感情を抑圧せず、ありのままに見ている時だ。しかし最初は誰でも誤ったやり方で瞑想してしまう。それは悪い事ではない。そこから学ぶ事で、常に気づいていられるよう、考え方を調整していく。
😩
自らの心理状態に気づいている時間が多くなると、自然と心の中の概念的世界が縮小する。そして自らの心と一緒に過ごす時間が増えるほど心を理解し、六門からの感覚を認識するだけで、苦しみから解放されるようになる。正しい思考は智慧の投影なのだから。
😪
日常生活を送る上で「良し悪し」「優劣」「苦楽」「美醜」などの概念を、自らの欲求の表れとして見る。すると概念のない現実世界に近づき、概念的な生活の出来事を、様々な心の投影として見る事ができる。そして人はどういう事で喜び、どういう事で怒るか、明確に理解される。
😬
修行者
心を観察する時、観る心と活動している心との区別がつきにくいのですが?
長老
観察する心と様々な活動をしている心とを分離するには、気分、感情を観る。疲労や眠気、やる気、恐怖、不安など、活動している心には感情が入っているが、気づきには感情がない。
😭
修行者
瞑想中に雑念が多い時は、対象に判断や解釈を加えていないか確認するのと、雑念の背後にある感情を確認するのと、どちらがいいですか?一応どちらもやっていますが
長老
その時々で適した方を選ぶ。それができるという事は、あなたは雑念を対象として見ていられるはずだ
雑念を対象として見ていられると、雑念を使って心を落ち着かせる事ができる。雑念に巻き込まれずにいられるのは、雑念の本質を理解しているからだ。そこまでいけば、雑念を呼吸と同じように使って、浮かんだり消えたりする様子を見ては、心を落ち着かせる技を使える。
😰
修行者
瞑想中に悲しい事を思い出して沈んでいたのですが、悲しみと、思考や身体の重さとの相関関係を見ていたら心が明るくなりました。
長老
その気づきと落ち着きはとても良い。心が不善な状態だったのが、気づきと智慧とによって視界がクリアになった。善心が不善心を弱めたのだ。
😱
瞑想とは善心を育てるもの。善心を常に準備して強く保つと、怒りや嫌悪感、貪欲さなどの不善な心が来ても自然と追い払う。気づきは善心であり、常に気づいている事で心を強くし、明るく穏やかで平和にする。気づきさえあれば、たとえ困難な状況に陥っても滅入ってしまう事はない。
😲
修行者
私は習慣を変えるのが苦手です。習慣の一つに判断癖があり、出来事を良し悪しと判断して解釈してしまいます。そのために怒りや貪欲さが生じます。
長老
何事も変える必要はない。ただそれを観察し、知るだけでいい。良い体験を得るために心を観察するのではないのだから。
😳
修行者
心が動揺している時は、気づいていても巻き込まれそうになります。
長老
通常私たちは、動揺や感情に気づいている時は、それと闘い苦しんでいる。しかし気づいている限りは巻き込まれる事はない。「気づいていれば大丈夫」という考えは、観察を助け、心身をリラックスさせる。
不安や恐怖などの感情や、心身の不快感や嫌悪感などに「私の不安」「私の不快感」と執着すると、心を動揺させる。単なる不安や不快感などを「私の」とした時点で気づかないと、事態を一層悪化させてしまう。しかし心身に起こる現象を「私の」抜きで見る事は、リラックスをもたらす。
😴
瞑想中、時々自らの努力のあり方に注目してみる。頑張り過ぎると不安な気分が出てくるし、抜き過ぎると眠くなるからだ。しかし、その事を確認すれば智慧が努力の加減を調節する。智慧が一つの対象だけ観て落ち着くようにしたり、細部まで観て眠気が覚めるようにしたりするのだ。
😵
修行者
仕事で大変な事があり、帰宅してからも思考が止まらない時はどうしたらいいですか?
長老
物事を価値判断し、更に「私はどうの」と解釈し、思考が過剰になって混乱している時は、それ以上考えると疲弊してしまう。そんな時はサマタ瞑想のように一つの対象だけを見るといい
思考が過剰な時、智慧は落ち着かせるための方法を選ばせる。呼吸なら呼吸一つに絞って継続的に観察し、心に考える隙を与えないようにするのだ。思考がおさまるまで一点集中の瞑想のように、一つの対象だけに絞って気づく。これは単純作業であり、サマタ瞑想と同じ効果をもたらす。
😶
修行者
自宅で日常生活をおくりながら気づくのが上手くいきません
長老
最初のうちは、日常生活においては何かに気づくより、心の状態を見る方が簡単だ。「慌てている」「困っている」「苛立っている」などと、頻繁に自分の気持ちをチェックしていると、それが習慣になっていく
😸
修行者
瞑想すると、かつてトラブルで被害を被った事を思い出し、怒ります。相手を赦したつもりですが、まだ赦していないのでしょうか?
長老
赦していないわけではない。記憶が甦り、心が自動的にそう反応しただけだ。赦そうと意図する必要はない。ただそれに気づくだけでいい。
過去の記憶が甦った時、それを見て「ああ、かつての私だなあ」と執着すると、たとえ解決した問題であっても、また感情が戻ってくる。赦していないのではない。ただ執着しているだけだ。その記憶に「私だ」と執着しなければ、その問題とあなたとは、何の関係もなくなる。
😿
修行者
合宿でしばらく集中的に瞑想しましたが、自宅に戻ったら直ぐ気づきが維持できなくなりました。
長老
自宅でマインドフルに過ごすためには、生活を気づきを維持するのに適したスタイルにする。家事や食事、お茶、趣味などを、気づきながら楽しんでやる癖をつけるといい。
👽
修行者
生活に気づきがあるのとないのとではどう違いますか?
長老
気づきがあれば現実を生きるし、なければ概念的な生活をする。現実は心身の条件の組み合わせの原因と結果があるだけの単純なものだが、概念的生活は「私」が「善悪」「優劣」の概念の中で生きる厄介なものだ。
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瞑想中に雑念が浮かんだら、その事だけを確認し「かつての私」とか「彼だ」「彼女だ」などと追わない。ただ雑念が浮かんだり消えたりする事だけを観る。気づきが勢いづいてきてたくさん気づけるようになったら、その気づいている事を確認する。気づきも一つの対象なのだから。