T氏 日本人 60代 男性
日本のヴィパッサナー瞑想のパイオニアと言われるT氏が、マインドフルネス瞑想のS瞑想センターを訪れたのは、忘れもしない東日本大震災が発生する直前の、2011年3月11日の朝。
T氏は50代後半で仕事を上がり、第二の人生を瞑想修行に賭けようと、一切合切の身辺整理をして、一生修行して過ごすつもりでミャンマーまでやってきた。詳しい事情は知らないが、恐らく扶養義務から解放されて自由の身になったのだろう。やる気満々、気合い満々で、凄く熱心に修行に励んでいる。
仏教国ミャンマーでは、このT氏のような第二の人生を修行に賭ける人も多い。子供の頃に坊さんに憧れて出家する人も多いが、思春期や青年期に精神性を求めて出家する人も多い。そして50代、60代になって世俗の煩わしさから解放されてから出家する人も多い訳だ。そしてどのパターンで出家しても尊い行いには違いないと言われている。
「私はこの歳になってやっと本格的に修行をスタートさせますから」
しかし一抹の不安もある。瞑想修行は本格的にやる場合は心身共に健康でなければならない。ちょっとでも悪いところがあると、中々瞑想センターのスケジュールについていけないからだ。T氏はその歳になって始めると言っても健康の方は大丈夫なのか?
だが、そんな心配もT氏の身体を見たら吹っ飛んだ。T氏のお腹は腹筋がボコボコ出ていて全くたるんでいなかったからだ。身長も185センチぐらいある大柄な人なのだが、筋肉隆々、鋼のような肉体を持つ姿はまるで何かのアスリートのようで、とても年齢相応には見えなかった。
そしてそれを裏付けるかのように食事の時になると、T氏は凄まじいまでの食欲を見せた。瞑想センターの食事はバイキング形式で、好きなだけ取って食べていいのだが、T氏はいつでもご飯やおかずを皿に溢れる寸前まで超てんこ盛りにし、他の修行者たちから失笑をかっていた。本当に凄い強靭な内臓の持ち主である事が判った。
またT氏は語学堪能で、英語はもちろん、ドイツ語、ヒンドゥー語もできる。だからコミュニケーション力抜群で、海外で生活するのに何の問題もない。
T氏はそれまで何をやっていた人なのか?それは判らない。というのはT氏には出版関係者の知人が多いようで、それもそうそうたる大手出版社や新聞社の人たちばかりなので、ビビって聞けなかったのだ。また、相当な映画通で、今まで観てきた作品はかなりの数に上る。
瞑想センターを放浪したT氏
T氏がミャンマーに着いたのは、実はS瞑想センターを訪れる数年前だった。その間T氏はM瞑想センターやC瞑想センター、PS瞑想センターなどのマハーシ系の瞑想センターを短期間の滞在で転々としていた。
「瞑想センターって無期限でずっと居られる所だと思ってたら、どこも半年までとか滞在期間が限定されてるんです。しかたなく半年ごとに転々としてました」
Tさんはそのようなマハーシ系瞑想センターの事情を知らなかったのだ。というのもT氏は1985年に一度、マハーシ式ヴィパッサナー瞑想の総本山、M瞑想センターを訪れている。
「当時は外国人修行者なんてほとんどいなくて、私とアメリカ人が一人とオーストラリア人が一人いただけでした。出家して坊さんになればビザ代免除で、一生タダで居られたものです。だから私はこの国に来たんですよ。一生瞑想センターで修行して過ごすために」
その頃は国名もまだビルマだったし、首都名もラングーンだった。その25、6年前のシステムが今でも継続されていると思っていたT氏。ところが実際にはとっくの昔に時代は変わり、今ではマハーシ系の瞑想センターは、どこに行っても外国人だらけになっている。
これはかつてのビルマ政府が観光客を呼ぼうと、ビルマ文化を海外に宣伝する際、仏教と共にマハーシ式のヴィパッサナー瞑想も紹介したためだ。
「どこのマハーシ系に行ってもヴィパッサナー瞑想を修行してみたい外国人で一杯で、宿舎の空室待ちが沢山いるから、滞在は半年までにしてくれって言われるんです。困りましたよ。今更家に帰れって言われたって帰れませんから」
まさかこんな状況が訪れる事になろうとは、25、6年前には夢にも思っていなかったT氏。
「でも、大混雑なのはマハーシ系だけで、他の所は空いてるなんて思いませんでした。私はもうここから離れません」
そしてマハーシ系と違って、外国人どころかミャンマー人ですら知らない人の多いシュエウーミン式のS瞑想センターは、宿舎にも空室が目立ち、まだ二人部屋を一人で使用できる状態だ。
T氏はそれを見て「ふう、やっと安住の地を見つけた」と溜め息をもらした。そして「私、修行法に慣れたら出家しますから。ここを終の住処としたいんです」と抱負を語ってくれた。
T氏の修行歴
インドのヒマラヤ山麓にはリシケシというヨガの聖地がある。今から50年程前の1970年代前半、T氏はこの地のヨガ・アシュラムに滞在していた。
このヨーガ・ニケタン・アシュラムは、ラージャ・ヨーガの創始者であり、グル(導師)の中のグルと言われたスワミ・ヨーゲシヴァラナンダ師の道場だ。
T氏がここで修行していた時、他にもう二人のT氏と同じ世代の日本人青年たちが一緒に修行していた。
一人はその後スワミ・ヨーゲシヴァラナンダ師の著書「魂の科学」を日本語訳し、日本にラージャ・ヨーガを紹介する事になる、現日本ヨーガ・ニケタンと日本ヨーガ療法学会の二つの団体で代表を務める木村慧心氏。
そしてもう一人はその後タイに移り、森林派の指導者アーチャン・チャーの元で修行し、彼の高弟としてカンチャナブリーにて40年近くもアーナー・パーナー・サティーの指導をする事になる、アーチャン・光男・カウェサコ師こと、現在は還俗した柴崎光男氏。
また、アメリカの瞑想指導者でマインドフルネス瞑想の生みの親とも言われるジャック・コーンフィールドやジョセフ・ゴールドシュタイン、シャロン・サルツバーグなどもこの時期、場所は違うがインドやタイ、ビルマなどで修行していた。しかもみんな20代で。
この頃のアメリカは、官僚や大企業などの出世競争や販売競争から成る激しい競争社会で、社会の価値観に疑問を持つ若者が多かった。また、ベトナム戦争が泥沼化した時期でもあり、反戦思想を持つ者も多かった。だからそんな若者たちは、従来の価値観に対抗できるだけの新しい精神的支柱を求めて、はるばるアジアまでやってきていたのだ。
「何を時代遅れのナンセンスな事やってんだ!!お前は腐り切った世の中を変えようとは思わんのか!?このノンポリめ!!」
いわゆる団塊の世代とか全共闘世代とか言われるT氏は、学生時代を京都で過ごした。日本でもこの時代の若者は、既成の価値観に疑問を持つ者が多かった。もちろんT氏もその一人だった。
だが、T氏の周辺は、多くの人々が社会を改革する運動、しかも「武装蜂起」を叫ぶ過激な方向に向かった。そんな中でただ一人、T氏だけは禅寺巡りをしたり、仏教を学んだりする、自己探求の方向に向かった。T氏は問題を日本の若者たちより、アメリカの若者たちのような方法で解決する事を望んだのだ。
だが、T氏の周囲の人々は、T氏の行動を全く理解せず、容赦なく辛辣な言葉を浴びせかけた。
そのせいか、今でもT氏は左翼的な発言をする人が苦手で、T氏の前でそのような言動をとるのは厳禁となっている。
T氏が日本を出てインドに向かったのは、そんな理由からだったのかもしれない。
「瞑想やヨガを自分たちの国に持って帰ってみんなに教えてあげよう。こんな素晴らしい修行法は世界中に広めるべきだ」
彼らが拠り所にしたその東洋の思想とは、宇宙丸ごとみんな同じもの、全てのものは同じ宇宙の部分部分で別のものではない。「私」や「私のもの」などというものは実際には存在しない幻想に過ぎない。全ての人々はその事実に気づき、共存共栄の道を行くべきだという、言わば階級闘争のない共産主義思想のようなものだ。
彼らのそのような考えには、もちろんT氏も共鳴した。そしてT氏もできるだけ多くの人が瞑想やヨガに親しめば、世界はきっと住みやすくなると信じていた。
それはいいとしても、この世代の修行者たちは、アジアに伝わる瞑想やそれをマスターした聖者たち、そしてその教えとそれを体得するための修行道場を、どんどん発掘しては母国に紹介した、瞑想修行のパイオニア世代と言えるのかもしれない。
T氏は他の二人や他の外人たちと共にそこでしばらくヨガの修行に励んだ。みんな熱心だから刺激し合えていい修行ができたはずだ。しかしT氏は彼らと違ってそこで出家し、修行に専念する事はなかった。そしてその後帰国し、就職して会社勤めをしながら瞑想修行を続ける事になる。
空前のマインドフルネスブーム到来
「な、何だこの修行者の群れは!?」
やっと安住の地を見つけた事で、それ以降今までの鬱憤を晴らすかのように修行にのめり込んでいたT氏。S瞑想センターに移ってから4か月程が経ち、季節は7月の夏休みの時期に差し掛っていた。夏休みと言ってもミャンマーは雨季の真最中なのだが。そんな時、T氏の身にまたしても困難がふりかかった。
T氏が驚いたのは、その時瞑想ホールには100人以上の新参者が集結していたからだ。
「こ、これ全部今日から来た人たちなの?」
そこにはベトナム人が50〜60人程、韓国人が10人、マレーシア人10人、白人が20〜30人程いた。そうだ、これは全部今日からS瞑想センターに滞在して修行に励もうという人々だ。
それまでガラ空きだった瞑想センターに、突如として修行者の群れが現れたのだ。T氏が唖然とするのも無理はない。彼らは全て、夏休みを利用して瞑想修行に励もうと、はるばる海外からやって来た人たちばかりだった。
新参者たちのために、それまで一人で使っていた宿舎の部屋は、二人部屋になった。人が少なくて広々と使えた瞑想ホールはぎゅうぎゅう詰めになった。そればかりではない、連日に渡って新参者が海外から次々と訪れて来る。
彼らの滞在期間は、短い人は一週間ぐらいで帰るのだが、一人帰ったかと思えばまた直ぐ新しい人が現れて来る。入れ代わり立ち代わり新参者が現れては消え、サッパリ数が減らない。まるで外で空室待ちをして、部屋が空いたら入って来るみたいだ。
収容力200人程度のS瞑想センターの6〜7割が、常に新参者で占められている。そして瞑想センター側は初めて直面する非常事態にてんやわんやの大騒ぎだ。これは一体どういう訳だ?
「今、世界中でマインドフルネス瞑想がブームになってるんだよ。それで集中的に修行してみたいという人が多くなってるんだ」
な、な、な、何と!そのためブームになっている方法と同じ方法で修行するSセンター目指して、一斉に人が集まって来るのだという。瞑想センター側では混乱防止のため、急遽完全予約制にしたそうだが、結局この夏に訪れた外国人は合計200人以上で、常時120〜130人の新参者が宿泊していた事になる。
「悪いけどさ、これからは修行者はみんな3か月までの滞在って事にして貰えるかな?キャパシティが一杯で、修行したくてもできない人たちが沢山いるんだよ」
3か月まで?S瞑想センターまでもがマハーシ系のように滞在期間を限定する事にしたのか?突如決まった決定だが、それじゃマハーシ系の6か月より短いではないか!まさかこんな事態になろうとは、誰が想像したであろうか!?
とにかく今は、急激にマインドフルネス瞑想の需要が増えたものの、供給量が全くそれに追いついていない状況だ。修行者と瞑想センターとのバランスが完全に崩れたのだ。ミャンマー中央銀行は需要を抑えるために、直ぐにでも金利の引き締めが必要だ😵
しかもその原因は世界的なマインドフルネス瞑想のブームだと言う。それならばこれは70年代のあの頃、インドやビルマで修行していた同世代のパイオニアたちが、その教えを母国に持ち帰って広めた結果ではないのか?T氏があの頃望んだ「仏教やヨガの教えが世界中に広まればいい」という夢が叶えられた結果ではないのか?
「何という皮肉な結果だ・・・まさかこんな事になろうとは・・・・」
突然訪れたあまりの出来事に、T氏はただ呆然とするしかなかった。やっと見つけた安住の地と思ったのも束の間、またしても放浪の旅に出なくてはならなくなったではないか。
墓場付きの瞑想センター
「タイ国境近くのこの国の南東部に、モウラミャインという町があるんだ。そこに一つの山全体を使った広大な敷地の巨大な瞑想センターがあるんだよ」
だが、それで困ったのはT氏だけではなかった。宿舎の同じフロアに滞在していたフランス人青年や、オーストラリア人青年なども長期滞在するつもりでいたので、T氏と同じように頭を悩ませていた。
そしてオーストラリア人青年は、以前そのモウラミャインにあるパオ式瞑想のPA瞑想センターで修行した事があるので、またそちらに移る事にしたのだという。それにフランス人青年も便乗するつもりらしい。
「中々良さそうな所じゃないか。私も一緒に行っていいかな?」
それを聞いたT氏も、そのPA瞑想センターに興味を示した。
「もうちょっと詳しく教えてくれないか?」
そしてオーストラリア人青年をT氏の部屋に招き入れて色々話を聞く事にした。その時、一緒に部屋に入って行く二人の様子を、白い目で見ていた男がいた。この男はこのシリーズ第6話に出てくるフリー・アカマディター(居候)の異名をとったイタリアン・シェフのD氏だ。彼は二人が入っていった部屋のドアに耳を近づけたりして何やら聞いていた
「PA瞑想センターは収容力はSセンターの10倍はありますよ。しかもまだまだ新しい宿舎を増設中で、もっともっと大きくなります。更に支部も国内にいくつもあり、いずれもここより大きいです。どんなに修行者がやって来ても、絶対ここみたいにはなりませんよ。もちろん一生いる事も可能です。敷地内には修行者の墓場だってあるんですから」
「ホウ、墓場まで。まさに一生修行して過ごすための施設ですな」
それを聞いてT氏は即決したようだ。早速彼らと共にPA瞑想センターに移るため、バスチケットを手配したり、荷づくりを始めたりした。私の所にもPAセンターに行く事にしたと最後の挨拶に来た。
「また、いい所が見つかりました。今度はサマタの瞑想センターだそうです。私は本当はヴィパッサナーが好きなのですが、こうなったらもう、文句は言っていられません。背水の陣ですからね、アハハ」
「PAに行かれるんですか?」
T氏が今までミャンマーに来てからずっとやってきたのは、心身の現象に気づくヴィパッサナー瞑想。だがPAセンターは一点集中のサマタ瞑想だ。もう選択肢がないとは言え、修行法が全然変わってしまう事に問題はないのか?
「いや、瞑想って要するに『今ここにいる』って事でしょ?だから色んなやり方があるけどやろうとしている事は皆同じ。サマタもヴィパッサナーも関係ないですから。人間って何かを見たり聞いたりした次の瞬間に妄想しちゃうんですよ。自分を客観的に想像して自分が何かやってるような事を考えちゃう。それが邪魔なんですよ。それが苦しみの種なんです」
するとT氏は全く問題ないと言う。
「だからその妄想をしないようにするための方法が瞑想なんです。マントラを唱えたり一挙手一投足に集中したりしている時は、自分の事を考えてない。『今ここ』にいるから。『今ここ』にいれば自分を妄想する事がない。そして『自分』というものが妄想だと判る訳です。禅の公案使うのも使わないのも皆同じ目的でしょ?ずっと気づいている時も妄想してないでしょ?感覚の生滅を観察している時も『今ここ』にいて妄想してない。自分を妄想しなければ苦がない」
つまりT氏の言いたい事は『今ここ』にいれば、自分を妄想しなければ、悩み苦しみはなくなるという事だ。なぜなら苦の種というのは皆『自分』だからだ。確かに人間というのは『自分』をどうするかという事で頭を悩ませる。『自分』と他人とを比べたり、他人の評価を気にしたりして。『自分』さえなければ傷つくものは何もなくなり、怖いものはなくなる。
「そうなんですよ。みんなその『自分』があるから競争社会ができてくる。苦しみを逃れたければ競争に勝つしかないから。でもみんな『自分』がなくなったら、つまり『今ここ』にいるようになったら、競争社会は成り立たなくなるんです。自ずと世の中は変わります。その『今ここ』にいる方法なんですよ。瞑想というのは」
T氏は実は既に瞑想の方法など何でもいいレベルまで行った人だったのだ。そこまで判っていればもう何をやろうとも関係ない。要領を心得ている。なるほど40年も前からあちこち巡っているだけの事はある。
そして、T氏が70年代初頭から影響を受けていたと思われる思想も判った。つまり『今ここ・あるがまま』のBE HERE NOWの思想だ!あの時代にアメリカのカウンターカルチャーやニュー・エイジ運動の象徴的存在であった精神的指導者ラム・ダス。そのラム・ダスの説いた覚醒への道だ。今ブームになっているアメリカのマインドフルネス瞑想も、ルーツをたどればこのラム・ダスに行き着く。
我々はひとりである。ひとつの意識が異なる形をもって現れたにすぎないのだ。
ラム・ダス
その時、さっきからT氏とオーストラリア人青年の事を白い目で見ていたイタリアン・シェフがやって来た。そしてT氏に言った。
「おい、お前ら部屋の中で今、何をやっていた?」
そう言われても全然意味が判らないT氏。ハア?みたいな顔をしている。
「とぼけるなっ!あのオーストラリア人ゲイだぞ!この施設内で変な事すんなよっ!」
「何だオメーは!変な事言うなっ!とっとと消え失せろっ!」
突然あらぬ疑いをかけられて驚き、珍しく語気を荒らげたT氏だった。
T氏の再出発
「いやあ、あれから考えたんですが、瞑想センターが修行したい人で溢れるって事はいい事なんですね。昔はちょっとしかいなかった外国人が、今はこんなにいる。それだけ仏教や瞑想に親しむ人が多くなったんですよ。アジアだけのものだったのが、世界中に広まった訳ですから。だから私が立ち退かなくてはならないのは、本当にいい事なんです。若い頃望んでいた通りになったんですから」
色々あったがT氏は、一連の出来事をそのように受け取る事で決着をつける事にしたようだ。そして思い立ったが吉日、T氏は早速オーストラリア人やフランス人青年たちと一緒にPA瞑想センターに出発する事にした。そしてSセンターを離れる間際、見送りに出た私にそう言った。
「ミャンマーの瞑想センターはどこも無料というか、完全寄付制でやっているので、世界中から人が集まって来るのは当然です。インドなどはほとんどが有料ですから。これも修行です。言わば修行させて貰えない修行ですね。アハハハハ。これは私にとっても瞑想センターにとってもいい事なんです」
「修行させて貰えない修行?」
何という修行だ。矛盾しているではないか。T氏もまさか日本を出る時にはこんな修行をするハメに陥るとは夢にも思っていなかっただろう。長年修行していると、本当に色んな修行をする事になるものだ。
「じゃあ、お世話様でした。ヒロさんも頑張って下さいね」
そう言われて私は反射的に
「じゃあ、Tさんもお元気で。今度行く所こそ終の住処になればいいですね・・・・」
と言いかけたのだが、そこでたった今T氏が言った事を思い出し、
「いや、また修行者で溢れかえるようになればいいのか・・・・あれ・・・違うか?」
などと、つられてすっかり矛盾した訳のわからない挨拶をするハメに陥ってしまったのであった。