【ウ・テジャニヤ長老の名言第15集】

2023年5月5日金曜日

名言集

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スーパーヒーローの条件

ウ・テジャニヤ長老はアンパンマンに似ています。しかし別にお坊さんがアンパンマンそっくりでも、何も問題はありません。

お坊さんが似て困るのはカバです。宗教家がカバに似てくると、周囲の人間は気をつけなければなりません。なぜなら人間がカバみたいな顔になっている時というのは、ずいぶん品のない精神状態になっていると思われるからです。

人間というのはどうも、名誉欲や所有欲、支配欲や権力欲にかられてしまうと、品のないカバみたいな顔になってしまうものらしいのです。

例えばヴィパッサナー瞑想の指導者がカバみたいな顔になってしまうとどうなるでしょう?おそらく「日本にはヴィパッサナー瞑想の団体が幾つもあるが、何とかひとつにまとめる事はできないものか?」などと画策し、団体を統一するための協会を設立し、メンバーを集めるために激しいオルグ活動を展開したりする事になるでしょう。

そしてメンバーたちからお金を巻き上げては巨大な施設を建設し、自らの力を誇示しようともするでしょう。更に権力を手に入れようと政治の世界にも進出し、世の中を自分に都合のいいものに変えようとするかもしれません。

こんなのがカバ顔の宗教家のやりそうな事です。しかしアンパンマンはそれとは対照的なスーパーヒーローです。スーパーヒーローというのは貪欲な者ではなれないし、怒りっぽい、攻撃的な者もでもなれません。ただひたすら困っている人を助けるためにだけ生きている人でなければなれない訳です。だからこそヒーローになれて、みんなから愛されるのです。だからアンパンマンに似ているというのは、実は私は最高の褒め言葉だと思っています。

という事で、私がウ・テジャニヤ長老の事を「アンパンマンに似ている!」「アンパンマンそっくりだ!」「アンパンマンそのもの!」などと言う時は、別に可笑しくて笑って言っているのではありません。実際に尊敬の念を込めて、賞賛している訳です。などとクドクドと言い訳じみた事を言ってしまいましたが、そんな訳でそのような私の「真意」をご理解頂けましたならば、私はとっても有り難いです🤣






修行者
私はコンプレックスが多く、妬みひがみでいっぱいで惨めです。

長老
「私のコンプレックス」「私の妬みひがみ」と、自然の物事に「私の」と執着するとそのような反応が生じる。だから「私はどういう者か?」と妄想する前に、まず「私」と思っている事を確認する事だ。
物事に「私」「私の」と執着すると、必ずその反応が生じる。そして「私」についての妄想をして更に苦しむ。何かを見たり聞いたりする時に、対象を変えようとするとそうなる。だからそんな時は、対象をそのまま受け入れるといい。そうすれば「私」とは思わなくなる。



修行者
常に得体の知れない不安に脅かされています。なぜ不安なのかがわかりません。

長老
不安は望むものが得られない事を恐れているのだ。例えば信用や評価にしがみつき、失いたくないと望むと、望みが叶えられそうもない時は不安になる。望みが強ければ強いほど不安も大きくなる。



望みが叶えられない時はストレスを感じる。そのストレスは望みの強さに比例する。しかし私たちはそれを知らず、常に何かを得ようと一心に望む。それでも不安の原因を知り、その望みを観ると不安の大きさも変わってくる。だから何かを望んでいる時は、それを観ておいた方がいい。


私たちの心は、好き嫌いや欲しくてたまらないもの、そしてそれらから発生する妄想に簡単に騙され、失敗する。一時的な感情や衝動が永続的なものに思え、人生の道を踏み外す事すらある。だから私たちは外の世界だけでなく、自らの心にも目を向け、探求する必要があるのだ。






修行者
私は常に他人からの評価を気にし、嫌われる事を恐れ、自分の考えを曲げます。

長老
気にしている事や恐れている事をそのまま認識し、受け入れる事。その状態を変えようとせず、それが良いとか悪いとか判断を加えず、身体の緊張感と思考や感情との関連性を見るといい。


外部の事ばかり見ていると他人の評価が気になる。だからそんな時は、決してその状態を変えようとせず、そのまま認識し、受け入れる事だ。自らの心身の状態に目を向ければ心は落ち着き、外部の事は気にならなくなる。悪い事と判断すると慌てて直そうとし、さらに状態を悪化させる。


心を外に向けると、例えば誰かを見るたび美しい人がいたり嫌な人がいたりするように思え、自分も他人の目を気にするようになるが、心を内側に向けると、誰かを見ても自らの心に貪欲さがあったり嫌悪感があったりするだけに思え、落ち着き、他人の目を気にせずにいられる。


修行者
日常生活と心とを結びつけるとはどういう事ですか?

長老
日常の活動を自らの心身の状態に気づきながら行うと、例えば他人に嫌な事を言われて、その人の方を見ると嫌な人がいるように思えるが、自らの反応の方を見ると心に嫌悪感があるだけに思え、あまり反応しなくなる。
あるいは魅力的なものに気をとられても、不快で耐え難い状況に遭遇しても、相手の方ではなく自らの心身の状態に気づいていれば、自らの心に貪欲さがあり、怒りや嫌悪感があるだけだとわかる。だから日常生活と心とを結びつけていれば、いつも感情に囚われず、冷静でいられる。






修行者
歩く瞑想の時、肩がこっていたので心の反応を見たら、何も反応していませんでした。

長老
不快感に対する反応を見る時は、何が見つかるか期待しないように。反応はあっても他の事を見ようとしてピントがズレてしまう。そこにあるものが見えなくなってしまうのだ。


もし感覚をエネルギーとして見るならば、心はその感覚に反応しない事がある。心が身体を固体として認識していないとそうなる。だがその肩こりの場合は、不快感や嫌悪感が身体感覚にどう影響を与えているかを見た方がいい。また、不快感と思考との相関関係も忘れずに見る。


怒りや心配、貪欲さなどは、心身の強力なエネルギーとして感じやすい。一方で眠気や倦怠感などはエネルギーとしては認識していない。実際にはそれらもまた強力なエネルギーなのに。眠気や倦怠感を無痴のエネルギーとして認識できれば、それらに吸い込まれずにいられる。


精神的エネルギーは、急いでトイレに行きたい時や食べたくてたまらない時、痒くてたまらない時などに、強烈なエネルギーとして感じる事ができる。その時に、それら怒りや嫌悪感、貪欲さの衝動をエネルギーとして認識すると、修行への関心もますます高まってくる。


心をエネルギーとして見ると瞑想が楽にできる。欲しいものと欲しくないもの、好き嫌い、心身を動かそうとする意志は皆エネルギーだ。急いでいる時はそれらの心身のエネルギーを認識しやすい。疲れや眠気、恐怖、不安、渇望感なども全て強烈なエネルギーとして見る事ができる。


瞑想中に問題になってくる、五感の欲求と嫌悪感、落ち着きのなさ、心配、無関心、怠惰、疑いなどの五つの障害をエネルギーとして見るといい。そう認識する事で五つの障害に囚われ難くなり、楽に瞑想できるようになる。そして心身に起こる事に均等に気づけるようになる。



修行者
他人と話していると相手の考え方に巻き込まれ、気づきを見失います。テレビを観ている時もそうです。

長老
注意を自らの心身ではなく、相手の方にとられてしまうとそうなる。他人といる時でもテレビを観ている時でも、心を呼吸や身体感覚に置いておくといい。


会話中やテレビを観ている時に気づきを維持するのは難しい事だが、気づきを失っては戻る訓練を繰り返しているうちに出来るようになる。他人の考え方に巻き込まれず、自らの感情や動作に気づけるようになれば、何を言われても冷静に対処できるし、トラブルなく落ち着いていられる。






修行者
私はまだ瞑想合宿未体験ですが、修行に備えてやっておく事はありますか?

長老
常に他者に対して寛容である事(ダーナ=布施)と、人として恥ずかしくない行いをする事(シーラ=戒)とを心がけるといい。それが瞑想の準備を整えるために心を和らげる方法だ。


たとえ「私」という感覚が苦の原因とわかっても、敢えて手放そうとする必要はない。自らの心身に起こる事は全て自然であり、ある種の性質がある。「私」という感覚の性質を理解すれば、自ずと手放す事になる。だから大切なのはその感覚を観察し、理解を深める事だ。


修行者
瞑想は自分でやっているのですか?条件の組み合わせでやっているのですか?

長老
修行は自分でやるものと考えるよりも、自然が条件によってやっていると考えた方がいい。修行を自分でやると思うと貪欲さや怒りが生じた時に抑えようとするが、自然と思えば観察する。


「私が修行する」と思うのと、自然のものが修行していると思うのとでは瞑想のやり方も違ってくる。「私が修行する」のなら「私が悩み」「私が苦しむ」という事になり、煩悩を取り除こうとしてしまうが、自然のものと思えば執着せずに、観察して消えていくのを観る事になる。



修行者
点が繋がって線になるように、気づきを繋いで洞察を形成するようにするのですか?

長老
いや、そう考える事は期待であり、それによって失望を生み出す。その瞬間ごとにひとつの気づきがあると考えた方がいい。気づきが繋がっているように思える時は、思考に入っている。





気づきの修行は複雑ではないが、日常生活で気づきを失っては取り戻す事を繰り返すのは簡単ではない。日常生活では何が本質で、何が本質でないかを忘れているからだ。たとえ苛立っていても塞ぎ込んでいても、それに気づければ十分だ。そう理解する事で気づきが継続されるのだ。


修行者
心の中に恨みや心配が根づいていて手放せません。

長老
いや、手放せない事に気づいた時には既に手放している。なぜなら手放す事ができないと気づいたのは、外部のものではなく、自らの心を観ているからだ。そうすればもう恨みや心配があっても、考えようとはしなくなる。



誰かを恨んだり何かを心配したりしている時は、外部の物事に注意を向け、その事ばかり考えている。しかし注意を自らの心に向け、問題は外部ではなく、自らの心にあると知ったならば、もうその件に関しては考えなくなる。そして問題を思い出すたび自らの心を観るようになる。



修行者には3つの仕事がある。①心身に起こる事は全て自然のものと見て②起こってくる事全てに気づき③その気づきを継続させる事だ。それが自然の性質を理解し「私が何かやっている」とか「個」というものがあるという錯覚を減らし、概念に惑わされずに生活する方法だ。



瞑想修行によって貪欲さや怒り・嫌悪感に振り回される事がなくなると、心が落ち着く事で得られる喜びを知る。それは概念的生活で得られる喜びとは異なるものだ。しかしその喜びを知ると、興味は概念的生活よりも、心の観察の方に向かう。その場合の目的は心の探求になる。



修行者
年齢を重ねるにつれて身体だけでなく、記憶力も衰えて落ち込んでしまいます。

長老
その問題に直面している時は心の質が急降下している。心を身体感覚や呼吸に向けて1分でも気づき続けるといい。心の質が変わると気持ちも明るくなる。高齢者が心を守るための方法だ。


修行者 私の場合は修行が後退する一方です。 長老 それは後退と言うよりも、瞑想に興味がなくなったと言うべきだ。欲しくてたまらず興奮している時にその欲求を観る。苛立ってしょうがない時にその苛立ちを観る。それによって心が落ち着くという体験をすれば、自ずと興味は戻る。


私たちは常に気づきを継続させる事で、人生はこの瞬間しかないという事を真に理解しようとしている。この瞬間の叡智には終わりない気づきを通してのみアクセスできるため、理解を育てる事はそう難しい事ではないが、長い時間がかかる事になる。


修行者 現実のプロセスと概念のプロセスとの違いを教えてください。 長老 例えば車を見て、車について考えるのは概念のプロセスで、考えている事を認識するのは現実のプロセスだ。瞑想修行では現実のプロセスに注意を向けて、気づきと智慧とを育てるようにする。


あるいは怒りや不安があって、その苦しみがなぜ生じるのかを考えるのは概念のプロセスだが、怒りや不安がある事を認識するのは現実のプロセスだ。考えても苦しみはなくならないが、現実のプロセスに目を向ければ無常・苦・無我の性質を理解し、苦しみの原因を取り除く。



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  最終更新日 2023.12.31

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