【ウ・テジャニヤ長老の名言第16集】

2023年6月30日金曜日

名言集

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ワサが来た!

日本では今、夏真っ盛りですが、ミャンマーではちょうど雨季の真っ最中になります。こちらでは毎年この時期になりますと、お坊さんたちは外出を控えてお寺に籠もりっきりで修行するようになります。一日に8回ほど夕立のような強い雨が降るため、こんな時期はお寺で修行に専念するのが一番という事ではないでしょうか?


また、この時期にお寺に籠もりっきりになるのはお坊さんたちだけではありません。ミャンマーの人口の7割を占める農民たちもそうです。彼らは雨で農作業ができなくなるため、何もしないでいると雨季が終わる10月末まで暇を持て余してしまう事になります。


ですから仏教徒の彼らはこの時期、田植えを済ませると期間限定の出家をしてお坊さんになり、比丘たちや長老たちと一緒にお寺に籠もって修行するようになるわけです。この雨季の3か月間をお寺に籠もって修行して過ごす行事を、仏教徒たちは雨安居(ワサ)と呼んでいます。


雨安居は大体7月の満月の日から10月の満月の日まで続けられます。なぜ満月で区切るのかと言うと、仏教徒たちは伝統的に月の満ち欠けを見て「次の満月の日に」とか「次の新月の日に」などと言って予定を立てる習慣があるからです。そして特に重要な行事がある時は必ず満月の日を選びます。


ミャンマーでは通常、学校も会社も役所も他国に合わせて日曜日を休日にしていますが、この雨安居の期間だけは休日が変わります。この時期はどこも満月と新月、そしてその中間の半月の日が休みになります。それはどういう訳なのでしょう?


ご存知の通り仏教徒たちは、毎月の満月の日と新月の日はウポーサタ(布薩)と言って、自身の日々の行いを顧みて反省する日としています。ですからウポーサタは通常は月に2回ある事になりますが、雨安居の期間中だけは半月の日にもそれが行われるようになるため、反省の日は月4回になります。


ウポーサタには比丘たちは、夕方になると法堂に集まって227か条の戒律を読み上げます(パティモカ)。また出家していない在家の人々も、お寺に集まって瞑想をしたり読経をしたり、あるいは法話を聴いたりして気持ちを引き締めます。熱心な人たちは自身の貪欲さを戒めるために夕食を抜いたり、一日断食をしたりします。その他にも禁酒や禁煙、禁欲など、様々な方法で貪欲さを戒めます。


そのためミャンマーでは、雨安居の期間はウポーサタの日が休日にならないとみんなの都合が悪いわけです。そしてそのようにして気候の厳しい3か月間を過ごした後は、お坊さんたちは相変わらず修行の生活が続きますが、農民たちのは袈裟を脱ぎ、一般人へと戻って自宅へ帰って行きます。


自宅へ帰ると3か月前に植えてきた田んぼの稲はすっかり実っていて、刈り入れを待つばかりになっています。「3か月間でこんなに成長したか」そして稲の成長を見ながら、自身の心の成長を実感する事ができるようになっているわけです。


こういう年に一度の大イベントの時期が、今年もとうとうやってきました。今年はどれだけ伸びる事ができるのか?誰もが月が丸く膨らむのを見ながら、雨安居の始まりを楽しみにしています。






修行者

嫌悪感が強いので、それが出た時にはっきり見たいのですが、隠している何かがあって良く見えません。


長老

はっきり見ようとせず、その嫌悪感を認識するだけでいい。はっきり見ようとする努力は必要ない。あなたは既に嫌悪感がある事を知っているから、それで十分だ。



修行者

歩く瞑想の時はあまり気づけなくなります。


長老

歩く瞑想の時は何か物足りないように感じたかもしれない。だが、それは座って瞑想する時のように集中できなかったからそう感じただけで、実際にはバランスよく気づけていた。決して気づけなかったわけではない。


座る瞑想の時は多くの場合、気づこうと努力するため力が入り、集中しすぎている。しかし、歩く瞑想の時は集中しすぎていないため、バランスよく何が起こっているか気づけている。努力の感覚がないから気づけないように思うが、明晰になっているのがわかると、そう思わなくなる。



修行者

気づいていれば、たとえ怒りや貪欲さが生じても、私はそれに従うかどうかを選択できます。


長老

誰が感情に関与するかどうかを選択するのか?それを意図するのはあなたか?実はあなたではない。あなたではなく心がやるが、人々には「私がやる」と考える習慣がある。



修行者

瞑想中に心地よくなるとそれに囚われて、その体験をもっとしようとしてしまいます。


長老

貪欲さは怒りや嫌悪感と裏表の関係なので、身体が快適な時は囚われないよう注意する。身体感覚と心の反応とを区別したり、それらの相関関係を観たりして囚われないよう訓練する事だ。



修行者

人は病気になるとなぜ不平不満を言うのでしょう?


長老

心は病気の時の不快な感覚が嫌で不平を言う。心地よさが得られないと腹を立てるわけだ。だから気分がいい時はいつでもそれに気づく必要がある。ほとんどの人はそれに気づかず、無意識のうちに快楽を貪っている。


健康で気分がいい時はそれに気づく必要がある。気分がいいのはニュートラルな感覚ではない。気分の良さに気づかないと、心はその感覚をもっと得ようとする貪欲さに覆われてしまい、気分がすぐれない時に快楽が得られない不満で怒り出す。つまり心が騙されてしまうわけだ。





修行者

合宿ではちゃんと気づけるのに、家に帰ると気づけなくなります。


長老

家で修行できなくなるのは合宿で過度に集中して過ごすのが原因だ。そして今度は家に帰ってリラックスし過ぎる。合宿では家にいるように、家では合宿中のようにやる事を心がけると上手くいく。



修行者

瞑想修行が進歩すると貪欲さや怒りがなくなるのですか?


長老

いや、貪欲さや怒りはあってもいいが、それを観て巻き込まれずにいられるようになれば進歩したと言える。例えば嫌いな物を見ても平静でいられるようになれば、それは心が修行に熟練した事を意味する。


修行がまだ熟練しないうちは、好きな対象があるとそれを楽しみ、嫌いな対象があるとそれに抵抗する。これだとどちらの場合も心を対象から切り離せていない。しかし修行に熟練すれば、楽しい事があっても、嫌な事があっても、心は一歩下がってそれを観察する事ができる。



修行者

瞑想とは心を落ち着かせて気持ち良くなる事を目的とするものという理解でいいですか?


長老

それだと瞑想が終わって心が平静でない時は動揺するだろう。だからそう考えるよりも生活に気づきを持ち込んで、気づきを強化する事を目的とした方が修行がはるかに簡単になる。


私たちの関心が明晰で穏やかな心を手に入れる事よりも、むしろ実行の部分である、リラックスした方法で何度も気づきを失っては取り戻す事の方にあれば、修行は単純で簡単になる。つまり結果を得る事よりも、常に気づいている事を目的とした方が、ずっと楽にできるというわけだ。



修行者

気づきがあれば概念的世界から脱却できるのですか?


長老

そう。そして気づきを忘れると「善悪」や「優劣」の概念に縛られた概念的世界に没頭して苦しむ。だから気づきによって概念の儚さ知れば、私たちの生活は現実と概念とのバランスがよくなるというわけだ。



修行者

気づくだけだと直ぐ飽きてしまうのですが?


長老

修行に対する考え方を改める必要がある。瞑想で何かいい体験をしたいのに、それができないと退屈してしまうからだ。いい体験を望むのではなく、ただ気づき続ける習慣を身につけるためだけに瞑想すると大きな変化が現われる。


概念的世界における私たちの認識は偏っている。例えば他人が迷惑駐車をすると怒るが、身内がしても怒らない。そのように善悪や優劣の判断は、見事なまでに好き嫌いによって色づけされている。心はその本質を現すので、私たちは心に戻って好きか嫌いかを認識する必要がある。






修行者

瞑想中に感情が出てくると巻き込まれてしまって上手く観察できません。


長老

感情を観察する前に観る心の方をチェックするといい。その感情に抵抗しているのか?恐れているのか?なくなるのを期待しているのか?そうする事で感情を観察する準備が整う。


何か楽しい事を感じると執着し、不快な事を感じると抵抗するのが心の性質だ。心は受け入れられるまで、対象を追いかけたり抵抗したりするわけだ。私たちはその執着や抵抗を観察する事で心を訓練し、学ぶ事ができる。それによって感情に巻き込まれずに平静でいられるようになる。



修行者

瞑想に退屈して興味がなくなったらどうしたらいいでしょう?


長老

瞑想に何かを期待していて、その期待が得られないと退屈する。欲しいものが手に入らないからやってもしょうがないと。それはあなたの瞑想への理解度にかかっていて、修行の価値を理解すれば興味が出てくる。


最初、人々は穏やかで集中した状態から得られる良い気分のために瞑想を始める。しかし期待通りに静けさが得られないと、心は退屈する。それは自然な事だ。心は静けさに執着しているからだ。つまり退屈は執着から起こるという事を知っていれば、もう執着し過ぎる事はなくなる。



修行者

瞑想合宿から日常生活に戻ると楽しみがたくさんあり、それに気をとられて気づいていられなくなります。


長老

だからこそ自宅では気づきを継続させる必要がある。興奮した心は勢いが強いので、それ以上の気づきの勢いがなければそのように圧倒されて瞑想が困難になるからだ。


自宅にいて心が混乱している時は、どうすれば落ち着きを取り戻せるか?そのためには常に気づきを継続させ、気づきの勢いを維持しておくしかない。そうすれば興奮や悲しみ、怒り、不安などの感情が生じても圧倒される事はない。そして気づきの勢いが心を安定させ、喜びを生み出す。



修行者

いつも気分が沈みがちで、他人の目や言われた事ばかり気にしています。元気になる方法はありますか?


長老

心を活性化し、活力に満たされたいのであれば、日常生活で気づきを継続させる事だ。5分でも継続させるだけでエネルギッシュになり、落ち着いた歓びに満たされる。


日常生活において、気づきの継続によって心が活性化し、落ち着いて充実した状態を体験すると、それが強い動機となって常に気づきを継続させておくようになる。たとえ心が沈んでも直ぐ回復する。また、自らの状態に気づいている時は、他人の方に注意が向かう事はない。





修行者

私は修行というよりも、心が乱れないように生活に気づきを取り入れているのですが?


長老

それでいい。日常生活で気づきを実践する事は非常に有益だ。歩いたり、運転したり、仕事をしたりしている時に、考え過ぎて混乱しないよう、常に気づきを継続させておくといい。


日常生活に気づきを取り入れると、考え過ぎて頭が混乱した時、呼吸や身体感覚などの安定した対象に心を置き、落ち着かせる事ができる。それによって怒りや不安、心配などの思考に陥らずにいられる。不快な気分に陥りたくないという気持ちが動機となり、気づきを継続させるわけだ。



修行者

心の傷や恐怖を観察したくてもできません。瞑想するには勇気が必要ですか?


長老

いや、瞑想に必要なのは気づきだ。気づきが智慧をもたらし、物事の見方を変える。例えば過去の事を思い出しても「私」と執着しなければ恐怖は生じない。そして落ち着いて観察する事ができる。



修行者

心が傷つくと人に言われた事が何度も甦ります。


長老

言われた事が頭を離れない時は、悲しみや怒り、恐怖などの感情の方を観察し、感情から生じる思考に囚われないようにする。考えると更に悪化させてしまう。そして言われた事や感情が何度も生じては滅するのを観る。



修行者

病気の時は心を落ち着かせるために色々試しましたが、逆に苛立ちました。


長老

心が動揺している時は、何が原因かを考えると逆効果になる。そんな時はただ感情を観るだけにした方がいい。病気の状態から抜け出そうとすればするほど、心は一層興奮してしまうだろう。


次回病気になった時は、心が沈んだ事を確認する事だ。良好な状態を望むのは自然な事だが、現状を嫌えば嫌うほど心は興奮する。現状から抜け出そうとすると全ての努力が仇になる。だから滅入ったり不安になったりする心を何度も観察するしかない。興奮がおさまれば心は落ち着く。



修行者

心理状態は快い環境にいる時と不快な環境にいる時とでは違ってきます。


長老

身体のどこかに痛みや不快感があると不安や憂鬱な気分になったり、爽快感があると気分も晴れ晴れしたりする。これは不快さには瞋(ドーサ)の心が、快さには貪(ローバー)の心が執着するためだ。


貪とは快さをもっと得ようとする衝動で、瞋とは不快さを遠ざけたりなくしてしまおうとしたりする衝動だ。この快・不快の感受と貪・瞋の衝動とを観ていると、智慧が成熟するにつれて「私」がやっているのではなく、原因と結果の自然のプロセスとして観る事ができるようになる。



修行者

どうやって気づきで苦を克服するのですか?


長老

気づいている時は対象を認識している。それが快いものであれ、不快なものであれ、巻き込まれずにいる。それは心が喜びや苦痛、心配、不安などから離れる機会がある事を意味する。それによって苦から脱却する方法を理解する。


瞑想中は、気づきが喜びや悲しみ、怒りなどの感情よりもパワフルな場合はそれらを観ていられるが、気づきよりも感情のパワーの方が上回る場合はそれに巻き込まれる。智慧は気づきのパワーが上回ったり感情が上回ったり、シーソーのようになりながら成長していく。



修行者

長老はやりたい事は心が選択すると言いますが、私には選択の自由はないのですか?


長老

「私」というのは幻想で実際には存在しない。貪欲さや怒りにまかせて選択した時に「私は選択を誤った」と思い、智慧で選択した時に「私の選択は正しかった」と思うだけだ。


選択する時の自由という感覚は、善心から発生する。不善な心が主導権を握っている時は、欲望や怒りに支配されて選択の余地がない。欲と感情の赴くままに動かされ、不自由さをおぼえるばかりでなく、後で後悔もする。通常はこの不善心による選択は自動的に行われる。



修行者

耐えられない苦しみというのはあってはいけませんか?必ず気づいて耐えなければなりませんか?


長老

心がその苦痛に耐えられない時はそれを観る。私も病院で長い検査を受けた時、心が耐えられなくなっているのを観ていた。耐えられない時はそれを認識すればいい。


私が病院で長い検査を受けた時は、早く終わって欲しいとばかり思っていた。期待していたわけだ。そして状況が気に入らず苛立っていた。だが、その感情に気づいて観察しているうちに落ち着いた。だから苦痛に耐えられないのならそれを悪い事だなどと思わず、そのまま観ればいい。



 修行者

私はサマタ瞑想をやって凄く落ち着く事ができましたが、気づきでも同じ効果が得られますか?


長老

心は2通りの方法で落ち着く。まず考えたり気づいたりせずに一点に集中する方法。そして気づく事で心身に生じる現象から離れる方法。気づきの方は観察で学ぶ事ができる。



修行者 

私は嫉妬深くて他人がいい思いをしているのを見ると直ぐ不快になります 


長老 

嫉妬が生じるのは自然な事でも、それを「私の嫉妬」と受け止めると私たちは更に苦しむ。また「私の」と受け止めなくても嫉妬は何度でも生じるので、ここは嫉妬の背後にある現実を見る必要がある

概念を通して物事を見ると「私」がいて「あなた」がいて、それらを比べて「優劣」「善悪」を競っている事になる。しかし実際には「私」も「あなた」もおらず、ただ自然のものたちがあるだけで、比べるものは何もない。一度でもそういう現実を見てしまうと、嫉妬する気は衰える。





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  最終更新日 2023.12.31

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