日系アメリカ人のH氏が、中国人の奥さんのAさんを連れて、はるばるカリフォルニア州のバークレーからミャンマーのS瞑想センターまでやってきたのが2016年の12月。ちょうどトランプ氏が大統領に選ばれたばかりの頃だった。
H氏は寿司職人だが、店舗を持たずに専らパーティーやイベント会場、あるいは個人宅などにシャリやネタ、酒などを持参して赴き、その場で握って食べさせる、出張専門の職人さんだ。そして自ら若い職人たちを育て、彼らを使って無店舗型の寿司店を開業して10数年、今では若い者たちにそれを任せ、自分は海外に瞑想修行に出かける身分になった。
「キューシューだよ、キューシュー」
そのH氏の祖先は19世紀末に新天地を求めてアメリカに移住した九州出身の人らしい。H氏は四世だから、ひいおじいさんにあたる人か?しかし彼には全然白人や黒人の血が混ざっていないので、どこから見ても生粋の日本人にしか見えない。実は日本語は全く話せないのだが。
「オヤカタ!!」
通常は瞑想センターで欧米人を呼ぶ時は、修行仲間の場合は名前を呼び捨てにして構わない。それが彼らの習慣だからだ。だが、そんな訳で同じ日本人にしか見えないH氏を呼び捨てにするにはいささか抵抗があった。だから私はそんな彼を「親方」と呼ぶ事にした。弟子がいるのだからそれは当然というもの。
また日系アメリカ人と言えば、真っ先に思い浮かべるのが、第二時世界大戦中の強制収容所の話だ。全米各地で10数万人もの日系人が収容されたという。そのように多くの差別や不当な扱いを受けながらも、移住先で今日の地位を築き上げたのだから、日系人の彼らはこれまで相当な知恵と気力とを振り絞って生きてきたに違いない。H氏は戦後世代だから収容所は関係ないが、その言動からはいつも職人的な厳しさと、苦労人的な温かさが混ざり合って伝わってきた。
「おいおい見ろよあの2人、また話しながら歩いているぜ」
だからみんなそれを見ると、そんな風に言ったりしていたが、別に悪くは思っていなかった。まあ、2人は共に仏教好きなので、話す事と言えば瞑想のやり方とか、上手くいった話や失敗した話ばかりだから、それもまたお互いの向上のためになっているのだろうという目で見ていたのだ。
「うちには先祖代々の宗旨があって、本当はそこの教えでは、瞑想修行なんかやっちゃいけないんだけど、マインドフルネス瞑想なら気づくだけだから、ギリギリセーフなんだ」
だが、実は何とH氏は宗教二世、いや、四世で、あまり修行に情熱を持ってはいけない立場なのだという。というのも19世紀末、日本の明治時代に2万人もの人々が渡米した際に、彼らが日本から一緒に持って行った宗教があったのだ。そしてH家の人々は渡米以来、ずっとその教えを心の支えとして生きてきたらしい。
なるほど!移民たちには知恵と気力との源となる教えがあったのか!彼らの成功はその教えに支えられてのものだったんだ!
だが、その宗教とは一体何なんだ?困難に直面する移民たちを支えてきたその教えとはどういうものなのか?何だか凄い興味があるのだが?アメリカの寿司屋と言えば壺を売って資金稼ぎをする例の団体を思い出すが・・・まさかソレじゃないだろうな・・・・・
洗脳から目覚めた宗教二世
「何言ってんだよ、うちは先祖代々シン・ブッディズムの門徒なんだって」
シン・ブッディズム?
私が興味津々でH氏に「もしかしてアレ?それともコレ?」などと、アレコレH家の宗教について尋ねたものだから、彼は呆れたようにそう言って合掌し、念仏を称えてみせた。
「南無阿弥陀仏」
シン・ブッディズムとは真仏教、つまり真宗の事らしい。正式には浄土真宗だが、アメリカの仏教界ではそれで通っているという。浄土真宗と言えば念仏の宗派だが、という事は明治時代に2万人もの移民と共に渡米し、彼らの精神的支柱になっていた教えとは念仏だったのか?
だが、念仏と言えばご先祖様が迷わず成仏するための祈りの文句ではないのか?という事は渡米した移民たちの心の支えとなったのは、東アジア特有の先祖崇拝だったのか?
「ご先祖様?ハア、何それ?違うよ、阿弥陀仏ってのは智慧と慈悲の象徴だよ。ご先祖様は関係ないって。智慧と慈悲とに手を合わせるとエゴが出て来なくなって楽になるんだ。なぜなら人間ってのはみんな『私が』っていう思いで苦しんでるんだからさ」
えっ、智慧と慈悲の象徴だって?そんな話は初めて聞いたぞ?念仏ってそんなものじゃないでしょう?それって念仏が寿司同様に、渡米してアメリカ風に変化してしまったって事か?
念仏ってのは本来、タヒ者が迷わず極楽へ行けるよう、葬式の時に称えるもののはず・・・
などと、私も以前、鈴木大拙の妙好人について書かれた本を読んで、念仏でも真剣にやれば悟れるという話は知っていたが、依然としてそのような念仏に対する偏見は心のどこかに根強く残っていて、阿弥陀仏が智慧と慈悲との象徴と言われても直ぐにはピンと来なかったのだ。
そして私が念仏について思っていた事とは違う事を言われて戸惑っていると、H氏は更にそう説明を付け加えたのであった。
え~っ!「私」という思いが苦しみの原因だって!?それじゃまるっきりミャンマーの仏教で言ってるのと同じじゃないか!!
それで私も思わずそんな風に叫んだ。というのもミャンマーでもやはりそれと同様、何かコンプレックスやら何やらでムシャクシャしたり、人前であがったり、人の目が気になったりした時は、坊さんたちはまさにそれと同じ事をするように勧めるからだ。ただしこちらでは念仏ではなく「仏法僧に帰依します」と称えるのだが。
あら~!念仏ってそういうものだったのか!
それで判ったのは何の事はない、宗教二世とは実は私の方だったという事だ。私は幼い頃から両親や祖父母、親類縁者たちから、葬式や法事のたびに誤った仏教の知識を吹き込まれ、それを鵜呑みにしていたのだ。これを洗脳と言わずして何と言うのか?そして私はその時、H氏の話を聞いてやっと目覚める事が出来たのであった。
唯識思想
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そういう訳でH氏の家族は、毎週日曜日には必ずお寺に参拝に行き、僧侶からシン・ブッディズムの法話を聴いてくる熱心な門徒なのだという。毎週日曜日というのはキリスト教の習慣だが、アメリカ文化の中にあっては仏教もその習慣に従う事になる。しかしどうでもいいがこの本堂は、教会そのもので全然お寺には見えない。そこまでキリスト教的にしなければならないものなのか?僧侶も牧師(Minister)と呼ばれているし、まさか聖歌隊まであったりするんじゃないだろうな?
と、思ったらやっぱりあった!
「シン・ブッディズムの教えの土台にあるものはヨーガチャーラーの理論さ。だから念仏を理解するには、まずこのヨーガチャーラーを理解しないと」
ヨーガチャーラーとは日本で言う唯識思想の事だ。H氏やAさんは日曜日ごとにお寺に行き、唯識の勉強をしているらしい。アメリカのお寺は仏教理論を勉強する体制がずいぶん整っているようで、彼らは唯識についても相当詳しかった。
「ヨーガチャーラーでは意識を8つのパートに分類しているんだ。まず眼耳鼻舌身の5つの意識と、そこで感じたものを認識する6つめの意識がある。それに『私の』『私が』と『私が感じた』ように考える、マナスという7つめの意識があって、更にそれに妨げられて見えなくなっているアラヤ・ヴィジャナという、つまり8つめの意識があると説明している」
この図によると最初の5つが前五識で、それを認識する6つめの意識があって、更にその認識したものを「私の」と考える、H氏がマナスと呼ぶ7つめの意識の末那識があり、そして意識の最深層には8つめの意識である、H氏がアラヤ・ヴィジャナと呼ぶ阿頼耶識という意識がある事になっている。
ミャンマーの仏教ではそのように意識を様々な階層に分類したりはしないが、言いたいことは何となく判る。人間は誰でも見たり聞いたり感じたりした事を認識して、更にそれを「私の」と解釈しているからだ。マナスとは言わず、単に煩悩とか妄想と言うが、それを問題視する点では同じだ。
というのも「私」という思いがあると、自分がどんな奴かイメージしたり、今度は他人からどう思われているかイメージしたり、挙げ句にはそのセルフイメージを守ろうとアレコレ取り繕ったりする、いわゆる承認欲求も発生してくるからだ。
また「私」という思いによって自己中になり、自分の事も他人の事も世の中の事も、何でも「私」に都合のいいようにコントロールしようとせずにはいられなくなる。そんな訳で自分にとっても他人にとっても迷惑で、とにかくウザいのが「私」という妄想だ。
「それでそのマナスの活動に妨げられて見えなくなっているのが、肝心のアラヤ・ヴィジャナなんだ。このアラヤ・ヴィジャナってのは宇宙の根源と直結した意識で、これにたどり着けば宇宙の法則を体得して悟りの境地に至る事ができると言われている。そしてこのアラヤ・ヴィジャナは、肉体が滅びても業がある限り働き続ける」
アラヤ・ヴィジャナって・・ハハン、さてはあれの事だな、と、阿頼耶識でもいいが、これもやはりミャンマーの方では言わないが、言いたい事は判った。こちらでは宇宙の根源に直結した意識は、単に意識とか、純粋な意識、心の本性などと言っている。
よく巷で「気が見える」などという人がいるが、そういう人というのは多かれ少なかれこの意識に触れた経験がある人だ。私も20数年前に「気功療法」なるものを行う治療士に首の痛みを治して貰った事があるが、その人はひょんな事から「気」の世界を垣間見て、人体の気の流れが判るようになったと言っていた。また波動によって因縁が形成される原理も理解したので、それを良い人間関係を築くのに役立てているとも言っていた。更にこの意識を探っていけば、DNAの形成される仕組みまでもが手に取るように判るという。だからこの意識にたどり着けば、生きるのに必要な智慧を全て体得する事ができる訳だ。
そのためミャンマーの修行者の多くは、これにたどり着こうと必死で集中力を磨き、呼吸の間や足の痛みが生滅する間を観察しようとする。その「間」にこそ宇宙の根源への入口があると言われているからだ。
「だから、そのために必死で修行する訳でしょ?集中力を維持するためにガチガチに戒律守って、何年も瞑想センターに籠りっぱなしで?でも、それをやめときなさいと言ってるんだ、うちの宗旨では」
ハア?必死で修行するのをやめとけって言うの?何だ、その教えは?
そんな訳でH氏と話していたら、またまた驚きの発言が飛び出してきた。
他力本願に徹するH氏
「瞑想修行って悟りを目指して、色々と計画立てたり計算したりしながらやる訳でしょ?実はそれってモロにマナスの働きなんだ。だからマナスを使いながらマナスの活動で見えなくなっている、アラヤ・ヴィジャナを見ようとしている事になる。それってずいぶん効率悪いよね?だからそういう修行はあまり良くないって言ってるんだ」
えっ?まあ確かに悟りを目指して修行するのは煩悩だが、そうしなければ修行できないんだし、最初は煩悩でスタートするしかないんじゃないの?修行が進めば結果的に煩悩も落ちていくんだし、だから煩悩の働きで煩悩を落としていくという事じゃ駄目なの?
「いや、修行は一切しないんだ。悟りは目指さないんだよ。それがシン・ブッディズムのやり方だね。一切マナスは働かせない。そのためには自分の愚かさや無力さを認めて、一切合切宇宙の法則に身を委ねてしまうんだ。何が起こってもそれを受け入れ、決して自分のいいようにコントロールしようとせずに、なるがままに生きる。そうする事でマナスの活動を休止させてしまうんだ。マナスが止まったらあとは気づくだけだね」
気づくって何に?
「もちろんアラヤ・ヴィジャナにだよ。修行なんかしなくても、悟りは今ここにあるんだから。アラヤ・ヴィジャナに達すれば本当に今このままで大丈夫で、宇宙の法則に支えられて生かされている事を知るんだ」
「だから念仏って感謝の行いなんだよ。南無阿弥陀仏って祈りでもなければマントラでもない。ありのままの自分を受け入れて抱合してくれる、自我を超えた意識の働きに手を合わせて感謝してるんだ」
えっ・・・それじゃあシン・ブッディズムの門徒たちは、修行しないで宇宙の根源にたどり着こうとしてるのか?いや、それはできない事もないかもしれないが・・・実際に私もこのシリーズ第23話で書いた、修行しないで純粋な意識にたどり着いたスリランカ人を見ているし・・・あとは前述した気功治療士もそうだし・・・決して不可能な話ではないとは思うが・・・・・
「いや、全然修行しない訳じゃないよ。自己を顧みて反省したりはするよ。これだとマナスを使わないで済むでしょ。だからこのマインドフルネス瞑想も気づくだけだから大丈夫なんだ。でも悟りを目指してやったりするのはマズい」
なるほど。まあ、確かに禅でも「何も求めず只座れ」と言うもんな。それじゃあH氏は先祖代々の教えのお陰で、煩悩を増大させずに修行できている訳だ。いや、修行って言っちゃいけないのか。気づいて内省できる訳だ。でもそれはいい事だと思う。実際、悟りやら良い体験やらを目指して瞑想すると、上手くいかない時に苛立つもんな。そうか、彼はシン・ブッディズムの教えがあるから常に正しい心構えでいられるのか。
それよりも何よりも移民の精神ってのが判ったよ。つまり彼らはエゴを鎮めて協力し合っていこうという教えに基づいてやってきた訳だ。シン・ブッディズムは彼らにエゴの鎮め方を説いていたんだ。それが彼らに今日の成功をもたらした。そしてその教えは今でも彼らの間で強い影響力を持っている。
などと、シン・ブッディズムの教えについて何気なく考えていたところ、ふと頭の中に、親鸞聖人が説いたという、ある有名な言葉が閃いた。
あれ、もしかしたらこれって・・・・・
他力本願って奴じゃないか?
そうだ!H氏がずっと言ってたのは他力本願って事だったんだ!判った!彼らは自力で修行しちゃいけない人たちなんだよ!そういう教えの下に生きている人たちだったんだ!何だ!そうだったのか!やっと判ったよ!
そんなやり取りがあって、やっと私はH氏の言う事を理解し、納得する事ができたのだった。それにしても我ながら頭の回転が鈍いと呆れてしまう。彼が散々説明しても中々気がつかなかったのだから。だがその時はまだ、そのうち彼がすっかり変貌を遂げてしまうなどとは、夢にも思っていなかったのだが。
豹変したH氏
「私はマインドフルネス瞑想は旦那がやるからやってるけど、本当はシン・ブッディズムの方が好きなの。何もかも委ねると本当に『私の』って思わなくなるから、凄く楽になるのよ。他人の評価なんか全然気にならなくなるし、何かを失ってもダメージ少なくて済むし。何よりも私は、いつも行く浄土真宗センターの指導者が好きなの。日本人よ。法話が凄くいいから聴いてみて」
そんなある日、私が瞑想ホールの庭を歩いていると、奥さんのAさんが話かけてきた。彼女はいつもはその場所で、H氏と話しながら歩き回っているのだが、今日はなぜか一人で淋しそうに歩く瞑想をしていたのだ。
Aさんがお勧めするバークレー浄土真宗センターの僧侶、ケンジ・アカホシ先生の法話。興味のある方は自動翻訳の字幕付きでご覧下さい。
「旦那ね、最近修行にハマってるの。今も夢中になって瞑想してるんじゃない?」
私が不思議に思ってH氏の事を聞いたら、彼女はそう答えた。どうやら彼は修行に夢中でAさんどころではなくなっているようだ。一体どうしたっていうんだ?
「旦那は数日前の面接指導の時に、他の人が『見ると見える』の違いについてレポートしていたのを聞いて何か判ったみたいで、その『見ると見える』の探求に没頭してるの」
私もその面接指導の時はその場にいたから話は聞いていた。確か他のアメリカ人修行者が「外の光景が受動的に『見えている』だけの時は『私』がないが、目を対象に向けてジッと『見る』と『私』が出てくる」と言っていた。それに対してSUTが「それじゃあ、今の瞬間にいる時といない時とでは『私』が出ないのはどっちだ?」と逆に質問していた。あれの事か?
「そうなの。それで何か閃いたみたいで、『判った!対象に目を向けるとマナスが出てくるんだ!それならマナスのあるところにはアラヤ・ヴィジャナもある』って言って色めき立っちゃったの。それで目の色変わって、今夢中になって探求してる」
ガ~ン!何だそりゃあ!思いっ切り自力の修行になってるじゃないか!マナス使いまくって悟りを目指してるよ!H氏がこないだまで言ってた事はどこへ行ってしまったんだ!
そう言えばH氏は今日の昼食時に、他のアメリカ人修行者とS瞑想センターのアメリカ支部を設立する計画を立てていたぞ!人数を計算したり、資金を計算したりもしていた!そういう計画や計算はどうなんだ?エゴじゃないからいいのか?それにしても凄い変わりようだな!他力本願はどうなった!
「もう、狂ったようにハマってるの!シン・ブッディズムよりもずっと熱心になってる!彼は一体どうなってしまったの!?」
この前は、マナスを働かせたらアラヤ・ヴィジャナが見えなくなるって自分で言ってたのに、彼はアラヤ・ヴィジャナへの興味をそそられて、もはや理性も何もかも、すっかり失ってしまっているのか?
いや、これはきっと先日の面接指導の件だけじゃないぞ。彼は何だかんだ言いながらも、元々アラヤ・ヴィジャナに到達するための修行をしたくてたまらなかったのではないだろうか?彼と話した時も、彼がアラヤ・ヴィジャナに対して少なからずや興味や関心がある様子が見てとれたのだが。
それじゃあ彼がミャンマーまで来たのも、やっぱりそれが目的だったんだ。しかし奥さんもああいう人だし、他力本願でいなければならないという事情があって抑えていた。それでも先日の面接指導の件が引き金になって、とうとう抑えていたものが爆発したんだ!
鬱憤を晴らしまくるH氏
それからというもの、H氏の修行ぶりは目を見張るものがあった。何かが吹っ切れたのだろうか?周りの事など目に入らないぐらい気づきに没頭し、食事中だろうが掃除中だろうが、彼の目の行き先は自らの一挙手一投足に向かっていた。全ての動作に気づいている事が、端から見ていても一目で判った。そしてそれを一日や二日ではなく、来る日も来る日もずっと続けていたのだ。
こりゃあ本気だ!やっぱりそうだ!ずっと修行したかったんだよ彼は!まるで今までの鬱憤を晴らすかのようじゃないか!
そしたら何だかH氏の気合いの入れように圧倒されてしまい、自力だとか他力だとかいうのはどうでもいい事のように思えてきた。ただ彼のひたむきな姿に感心するばかりで、私はもう野暮な話をするつもりなど毛頭なくなってしまっていた。
マナス使いまくってない・・・それどころかマナス働いてないよ・・・・
しかも彼はずっと気づきを継続させている。という事は常に今の瞬間にいるはずだ。今の瞬間にいる時は「私」は出ていない。だから彼はマナスを使ってはいない。休止させている事になる。そしてマインドフルネス瞑想の純粋な意識へのアプローチのしかたは、
今の瞬間にいる事だ
という事は、H氏はアラヤ・ヴィジャナに正確にアプローチしている事になる・・・果たして彼は、上手く到達する事ができるだろうか?いや、もしかしたらこの調子なら・・・
何だかそういう気すらしてきた。今のH氏の調子なら、それも夢ではない。そんな感じでひと月以上も過ごした頃だろうか?彼の気づきの勢いも乗りに乗りまくって、ここまで来ると何の努力もしなくても、心の勢いだけで自動的に気づいていられるようになっているはずだ。この状態さえキープしていれば彼はいずれ・・・・
そんな風に、私はH氏の修行ぶりを見て、彼に何やら期待していたようだ。いや実際、期待せずにはいられなくなるような修行ぶりだった。だがそんな時だった。信じられない事が起こった。突然彼がマインドフルでいるのを止めてしまったのだ!
「う~む、残念だけどそろそろ帰国の時が来てしまった。商売の方を若い者たちに任せっきりで来てるから、いつまでも瞑想ばかりしている訳にはいかないからな」
そして唐突にそういう話をし始めた!何という事か!残念な事にH氏の制限時間が来てしまったのだ!
ゲーッ!マジかよ!H氏!
そんな勿体ない事を!こんなに気づきが勢いづいているんだから仕事なんかどうでもいいじゃないか!
私はまるで往年の名レスラー、新崎人生の念仏パワーボムでも喰らったかのような衝撃を受けた。
「でも面白い事が判ったよ。ずっと気づいて今の瞬間にいるとマナスが出ないんだ。これって全てを委ねたのと同じ状態だね。全てを委ねてマナスが出ていない時も、常に今の瞬間にいるからさ。だからマインドフルネス瞑想とシン・ブッディズムとは、目指しているものが同じだという事が判ったんだ」
しかし残念がっているのは私だけで、本人は全然気にしていない。しかも色々と気づけたようで、収穫の多さに満足気な顔すらしている。凄くいい顔だ。どうやら彼は抑え込んでいた修行への欲求を叶える喜びで一杯で、アラヤ・ヴィジャナの事はどうでもよくなっていたようだ。まさに無心の境地ではないか。それを思うとますます勿体ないと思うのだが。
「どうでもよくなったという事はないが、でも、アラヤ・ヴィジャナよりも溜まっていたものを吐き出すのを優先してしまったかな。自分をコントロールしようとして、欲求を抑圧するのも良くないからさ。お陰で気持ち良く修行できたよ。アラヤ・ヴィジャナはまた次回目指せばいい。それよりもいい事を思いついたんだ」
いい事?何だそれは?
「俺、朝起きた時、まず念仏から始めたんだ。これやるとマナスが引っ込んで気づきやすくなるからさ。そして気づきが途切れた時も念仏をやった。するとまたマナスが引っ込んで気づいていられるようになった。お陰でずっと気づきを継続できたよ。念仏とマインドフルネスを一緒にやると凄くいいよ。帰ったら門徒たちに教えてやろうと思ってさ」
ここで判った気づきの継続の秘訣。H氏はとんでもない事をやっていたのだ。まったくこんな方法は、お釈迦様でも草津の湯でも、親鸞聖人でも気がつくまい。そのようにして彼は新しい技を自ら編み出し、多くの智慧を開発し、そして心に蓄積されていた多くの鬱憤を晴らし、意気揚々と帰国の途についたのであった。