【ウ・テジャニヤ長老の名言第22集】

2024年6月14日金曜日

名言集

t f B! P L

 



進化する瞑想法


現在、仏教国ミャンマーで行われている瞑想法で、一番人気があるのはモゴ式という、身体感覚や雑念、感情などの心が次々と生じては滅していく様子を観察する方法です。


そして次が日本でもお馴染みのマハーシ式という、心身の感覚や動きをラベリングという技法を使いながら観察していく方法です。


この2つはいずれも戦後生まれの方法です。共にミャンマーでは新しいスタイルの、それまでの伝統を打ち破った斬新な方法でした。それによって多くの修行者を悟りに至らせ、ミャンマー仏教を活性化し、人々の信仰心を揺るぎないものとし、メンタルを安定させて幸福に導きました。精神面から見たこれらの方法のミャンマー社会への貢献度は、計り知れないほど大きなものになります。


しかし、これらの方法も開発されてから80年も経つと、ミャンマーの仏教界ではまた新しい動きが見られるようになりました。実例を挙げますと、CM瞑想センターという、マハーシ式に属する瞑想センターでは、ラベリングしたりお腹で呼吸を観察したりするところまでは従来のマハーシ式と同じ方法で瞑想しますが、あとはモゴ式のように、心身に起こる現象の生滅する様子を観察する方法をとるようになりました。言わばラベリングするモゴ式に改良された訳です。


これと同じ事はマハーシ式の本家、M瞑想センター内の、とあるグループでも行われています。面白い事にその一派は、そのラベリングするモゴ式の瞑想に入る前に、パオ・メソッドにある、身体内部をイメージする瞑想も行っています。そしてCM瞑想センターもこの一派も、従来のマハーシ式の方法より2倍もの結果を出す事に成功しています。


また、もう一方のモゴ式に属するH瞑想センターというところでは、従来のモゴ式で瞑想する前に、まずパオ・メソッドのカシナに集中する瞑想で集中力を磨いておきます。そして歩く瞑想にはマハーシ式の、ラベリングしながらの方法を採り入れています。まさに色んな方法からの、いいとこ取りをしている訳です。それによって従来のモゴ式の3倍ぐらいの結果を出す事に成功しています。


これで判るのは、ミャンマーの2大瞑想流派がごちゃ混ぜになって、ボーダーレス化しているという事です。瞑想法には特許とか著作権などというものはないのでしょう。パクリが当然のお国柄ですから、瞑想法でも何でもいいのがあれば、みんなパクって一緒にしてしまって構わないようです。


そして修行者というのは、どうしても結果を出している方法に飛び付きますから、今では当然のようにそれらのミックスした方法に、どんどん人が流れるようになっています。


そういう訳で、ミャンマーでは、また新しい瞑想法が次々と生み出され、従来のものが古いものとされる時代になってきました。そしてこれらの新しい方法は、いずれも修行するのに時間がかからず、在家の人々が僅か数週間の集中修行で、素早く悟る事が可能なので、出家とか在家とか、修行者の在り方にも変化をもたらすものとなりそうです。


こういう方法が生み出された背景には、経済発展によって豊かになり、職種も増え、求人も多くなって出家する人が減ってしまったという、現代のミャンマー仏教徒たちが直面している問題があるのかもしれません。つまり時代のニーズに合せて登場してきた方法な訳です。


そんな感じで世の中や瞑想法はどんどん変わっていきますが、しかしどれだけ変わっても決して変わる事がないものがあります。それは気づくべき自身の心身の状態です。という事で、古い方法かもしれませんが、ここからは時間をかけてコツコツ気づく方法の指導になります。



修行者

身体を観察する瞑想は集中の瞑想ではありませんか?


長老

身随観はサマタ(集中瞑想)の修行になる。最初はサマタから入り、身体もただの自然と心が理解すると、ヴィパッサナーの修行に入る。身体を概念的に見るとサマタになるが、現実を見るとヴィパッサナーになるわけだ。


概念に基づいた瞑想はサマタで、現実を見ようとするのがヴィパッサナーとなっているが、瞑想修行をそのような技術的カテゴリーに分類する必要はない。ただサマタの修行はジャーナ(禅定)を目標に行われるが、ヴィパッサナーの目標は別のものだと理解しておくぐらいでいい。



修行者

座る瞑想の間はエアコンの音に腹が立ち、心はずっとエアコンに向っていました。それで心はコントロールできない事がわかりました。


長老

心をコントロールしなかったのは良かったが、その体験で学べるのはそれだけではない。その体験を繰り返し観ると、ある事に気づく。


瞑想修行の大切なところは、なぜ心が何かをし続けるのかを確認する事だ。その場合は怒りによって心が対象に釘付けになったという事だが、怒りを確認し、心が対象に向った事を確認し、それを繰り返し観察しているうちにある法則性が見えてくる。それが学ぶという本来の意味だ。



修行者

ただ心身に起こる事に気づくだけで、なぜ瞑想が進歩するのですか?


長老

気づきの瞑想は気づきを維持しようとする事で進歩する。瞬間瞬間気づきを維持しようとすれば瞑想は改善される。それは気づきを維持しようとする時は智慧が働いているからだ。智慧で瞑想が進歩するのだ。



修行者

貪欲さと怒りとはセットになっているとはどういう事ですか?


長老

怒りは貪欲さのせいで起こる。例えば人々は平穏な生活を求めるが故に苦しみを恐れる。それは万事が上手くいく事を切望しているから、少しでも良くない事があると直ぐさま反応し、それを恐れるわけだ。


私たちは全てが順調にいく事を切望しているが、その事には気づいていない。そして何か不快な事が起こった時だけ自分の貪欲さに気づく。つまり怒りは貪欲さで何かを切望したものの、それが手に入らない時に起こるわけだ。そして良い事ばかり期待してそれを受け入れる事もできない。



修行者

日常生活で気づいているという事は、一切会話をしたり娯楽を楽しんだりしないという事ですか?


長老

私たちは瞑想というと、沈黙と静けさとを連想する。だが日常生活の気づきは日常をそのように過ごすためにやるのではない。単に心身に起こっている事を自ら知るために行う。


日常生活での気づきは、普通に日常生活をおくりながら、その時心身に何が起こっているかを知るために行う。自らの心身がどのような感覚や衝動、感情などによって動いているか、自分で自分の心身のメカニズムを探求するのだ。だからそのためには自然体でいた方がいいわけだ。



修行者

私は広告やプロパガンダに直ぐ洗脳されます。


長老

私たちの心は洗脳されやすい。一度広告の歌を聞くと頭の中で何度も再生される。また他人だけでなく、自身の考えにも騙される。だから怒りや貪欲さの思考は信じるべきではないし、修行について誤った考えを持つべきでもない。



修行者

仏教というのは自己否定の教えなのですか?


長老

自己否定には二つの意味があって、一つは世俗的に常識とされる「貪欲に楽しみを求めたり気に入らない事に怒ったりする」のを止める事。もう一つはこの心身の中に「私」なる主体が存在すると信じるのを止める事だ。


ほとんどの人は仏教では、苦しみは望むものが手に入らないが故に発生するので、欲望を断ち切れば苦しみがなくなるという教えを説いていると誤解している。しかし実際には、苦しみは「私のもの」「私が行う」という思いが原因で発生してくるので、それを止めるように説いている。



修行者

どうすれば修行への興味を維持できるでしょう?


長老

気づいている事のメリットを理解すれば修行したくなる。気づいている時と気づいていない時との違いはわかるだろうか?まずはそれをしっかり理解する事だ。それがわかれば、気づいている状態を維持したくなってくる。


気づきのメリットは苦しい時により明らかになる。例えば心に怒りや嫌悪感、不安や心配などがある時、その事に気づいているのと気づいていないのとでは心の質はどう違うか?気づいている方がずっと楽だと理解すれば、日々の生活に気づきが欠かせなくなり、それを維持したくなる。



修行者

生老病死については無視せずに、熟考した方がいいのでしょうか?


長老

熟考する代わりに私たちはいずれ年を取り、痛みを感じるようになる事を念頭に置いておく方がいい。それは必ず私たちの身に起こる事だと思っていれば忘れる事はない。熟考する時には気をつけるように。


生老病死について熟考する時は、心が穏やかで平和であるかどうかを確認しながらやるように。心が幸せでなければ、そこには怒りや嫌悪感がある。生老病死を厭わしく思っているのだ。そうなると心は熟考どころではなくなり、不満を抱き、必ず起こる事を拒絶する方向に向かう。



修行者

いつどこで不慮の災害等に遭っても落ち着いて行動できるようになるには、どうすればいいでしょう?


長老

突然の災害や差し迫った危険など、未知のハプニングに備えておくには、常にその瞬間に心の中で何が起こっているかを認識しているしかない。それが常に冷静でいる方法だ。



修行者

今は真実だと思って考えている事も、後になると無駄な思考だったように思えます。


長老

私たちが考える事は信頼できるとは限らない。特に貪欲さで何かが欲しい時の思考や、怒りをぶつけたい時の思考は信じてはならない。まず自分で感情に気づいてから思考を確認するといい。


貪欲さや怒りだけでなく、思考の中には妄想も働いている。何かを考えている時にその思考を正当化したい気持ちもある。そのような欺瞞に気づくと、思考や感情を信じたくはなくなる。また、たとえ思考を信じてそれに従ったとしても、気づき続けていれば過ちを抑えられる。



修行者

「私」というのは現実には存在しないという事は「私」について悩む必要はないという事ですか?


長老

概念的な生活の中には「私」「私のもの」が存在するが、心のプロセスの中には存在しない。「私」というのは概念的な共同生活を送る上での便宜上の概念に過ぎない。


全ての心のプロセスは無常・苦・無我の影響を受けている。無我・苦・無我とは、瞬間的に変化するものを所有する事はできず、それで満たされる事もないという意味だ。だから「私」とは思考で創りあげられた概念上だけのものに過ぎないので、実在と思って悩む必要はない。



修行者

苦しい時は気づいていようとするのですが、順調な時は気づきを忘れます。


長老

全てが上手くいっている時にこそ目覚めていなければならない。なぜならそういう時は喜びを貪欲に貪り、更なる喜びを渇望しているからだ。それによって状況が変わった時に苦しむ事になる。


全てが順調な時に「私がやっている」という思いがあると「私が成功した」などと思い上がり、上手くいかない人を劣ったように見なす。そのような思いにも気づいていないと状況が変わった時に「あんな奴にできて私にできない」と苦しむ。だから順調な時こそ気づく必要がある。



修行者

誤った見解は煩悩を増大させるのですか?


長老

誤った見解、つまり「私のもの」とか「私の顔」「私が勝った」「私は罵られた」「私はこういうタイプ」などと「私」について考えると、貪欲さや怒り、妄想が増大する可能性がある。「私」がなくなればそれは悟りの第一段階だ。




修行者

健康な時に病気や老化の痛みに備えておくにはどうすればいいですか?


長老

良い状態の時にそれを楽しんだり関わったりせず、何が起こってもそれを一つの経験と受け止めて認識する。そうすれば悪い経験が起こっても同じように認識し、そこから立ち直る事ができる。


それが原因と結果を理解するという事だが、それを知っている人は、良い経験と悪い経験の両方に備える事ができる。人は苦しむ時だけ目覚め、順調な時は楽しみに没頭して目覚めない。心が「いい」と言うたびに私たちは気づく必要がある。気づいていれば決して楽しみに没頭しない。



修行者

長老は病気の影響を受けますか?


長老

何が起こっても「良し悪し」の判断をせず、起こっている事をただ観ているだけだから、あまり影響しない。良い状態も悪い状態も体験している事という意味では同じ事。気づく対象としても同じ事だ。その状態よりも心に目を向けた方がいい。


心身に生じる感覚や雑念などに「良し悪し」の判断を加えてしまうと、それに執着してしまう。例えば痛みがなくて幸せな時は、気づきを忘れてその状態を楽しむ事に没頭し「もっと楽しみたい」と望む。その結果、状態が変わった時に望みが叶わなくなり、不満で苦しむ。



修行者

痛みが苦手で歯医者に行くのも嫌なほどです。


長老

あまり快適さばかり求めると、痛みへの抵抗も強くなる。それは痛みについて否定的に考えるようになるからだ。痛みを悪い事と思うと、心はそれに耐える事ができない。だから問題は痛みではなく、考え方の方にあるわけだ。


また「私の痛み」と考えると心は更に抵抗する。だが、痛みは「私の」ではなく、自然に属するものと考えると楽になる。痛みに対する誤った見解と考え方は、自身を怖がらせる。痛みではなく誤った見解で苦しむのだ。しかし痛みについて正しい見解で考えれば、恐怖は和らぐ。



修行者

普通の生活をしながらでも苦しみから解放されますか?


長老

私たちは普通に暮らしながら、心の中で起こっている事に一貫して気づくように訓練しているところだ。常に心に気づいている事は解放であり、様々な出来事に魅了されて気づきを失う事は、苦しみに束縛される事だ。



修行者

この心身に自己というものはないという事はどうやって知るのですか?


長老

私たちは自分が単なる心身のプロセスである事を知る智慧は持っていない。しかし実際にはこの心身を操作している主体はおらず、心身の活動そのものが自分なのに、操作する者がいるように感じている。


私たちは自己を構成する知覚の心を直接体験する事ができる。知覚する心は見るもの聞くもの全てに、それを体験する者を創造する。私たちは物事を何でも「私が」「私の」と、何らかの主体が行い、所有しているように認識しているのだ。この認識を通して自己なる概念がある事を知る。



修行者

日常生活で気づき続ける事で疲れたりしませんか?


長老

正しい態度で行えば疲れない。日常生活ではただ気づいているかどうか確認しながら生活するだけで、疲れるような事はない。それを継続させるのが正しい見方と態度であって、疲れる場合はやり方が間違っている。



修行者

座る瞑想の時、雑念が浮かんだらそれが消えるまで観察しています。しかし雑念は消えても直ぐ戻ってきます。


長老

心は古いものが再び現れる事はない。同じ記憶でも、次に浮かぶ時は新しい心になっている。概念は古くても現実は常に新しい。記憶は古くても雑念は常に新しい。


思考についても同様、考える事はいつも同じでも、その心は常に新しい。遠い過去の後悔や不満は、思い出す記憶はいつも同じでも、思考と感情は常にその瞬間に生じては滅している。恐怖や心配についても同じ。つまり大切なのは記憶より、常に生滅している心の観察という事だ。



修行者

外の音や周囲の人々の立てる音で瞑想が邪魔されます。


長老

邪魔されたというか、その感情は怒りだ。怒りがある時は自分で自分を怒らせるような事を考えている。そしてそこには「私を」という考え方がある。だからそんな時は、感情と思考との両方を交互に観る必要がある。


怒っている時には怒りをかき立てる対象が憎く見えるが、怒りが収まると対象への考え方も変わる。だから怒りがある時は対象のせいにせずに、自身の心のプロセスについて学ぶ必要がある。感情と思考とを交互に観ていれば、対象に対する考え方が原因で感情が生じるのがわかってくる。



修行者

考えている事に気づいていても、その思考を楽しみたくて気づきに戻れません。


長老

気づいていない事に気づいた時は、気づきは既に存在している。考えた事がわかれば、もう思考に気を取られない。だが「私の事」を考えたという思いがあると、貪欲さや怒りが出て戻れなくなる。



修行者

正しい見解で物事を自然に見るにはどうしたらいいですか?


長老

自然とは原因があって結果があるという事。「私」というものは存在しないのに、物事を「私が見ている」「私の感覚」と考えると、その結果として怒りや貪欲さが増大する。その事実を理解するために瞑想をする。


心身に起こる事に気づかないまま認識すると、それは「私の感覚」「私の思考」などと誤った見方をする事になるが、心身に起こる事に気づいていれば、体験を「私の」ものにする事はなく、正しい見方をする事ができる。つまり私たちの見方を変えるものは智慧なわけだ。



修行者

幸福とは良い体験をする事で、不幸とは悪い体験をする事ではありませんか?


長老

私たちは体験の良し悪しが、心の中で好き(幸福)嫌い(不幸)を生むと思っているが、その体験の良し悪しを決めているものは、誤った物事の見方だ。誤った見方が幸、不幸を決めている。


物事の誤った見方(ミッチャディッティ)とは、体験は「私がする」ものであり、永続的で満足できるものであると信じている事だ。つまり「私が体験している」という見方の事であり、そこから私を基準にして物事の「良し悪し」を判断し、好き(幸)嫌い(不幸)の反応が生じる。



修行者

四聖諦とはどういう意味なのですか?


長老

私たちは自らの身口意の行いに悩まされるたび、心を観ては、その反応に気づく。これがそのまま、送り出される心は苦で、苦の原因となり、送り返される心は苦の終わりで、苦の終わりへの道であるという、四聖諦の実践になっている。



修行者

他人から非難されると、自分の事をアレコレ想像している事がわかりました。


長老

そう、非難されて自分の事を想像したり言われた事を解釈したりするのは妄想だ。全く必要のない事であって、妄想などをするから心が傷つく。妄想さえしなければ心が傷つかずに済む。


他人から非難された時は、心を自身の呼吸や身体の緊張感などの感覚に置く。そして感情を観察して、決して言われた事や自身について考えないようにする。感情と緊張感との相関関係を観てもいい。そして妄想しても、心を傷つけるだけで何の利益もないと自身に言い聞かせるといい。



修行者

綺麗な鳥を見たら貪欲さが出たものの、見えなくなると怒りが込み上げました。その時直ぐ私が見たのは自然ではなく「綺麗な鳥」という概念だからそうなったとわかりました。そして貪欲さが原因で怒り結果だという事もわかりました。


長老

何が起こってもそのまま観る事だ。


気づきの体験を多く積むと、気づきに熟練するだけでなく、自分が気づいた体験を熟考したり、智慧を持ってその体験を確認したりする方法がわかるようになる。そうすればもっと興味を持って自らの体験している事を、一歩下がって、起こるがままに認識する事もできるようになる。



修行者

どうしても対象を概念的にしか見れません。


長老

初心者のうちは対象を「生物/無生物」とか「美/醜」などと概念的にしか見れないが、慣れてくれば概念を見た後に、智慧で自然を見る事ができるようになる。知覚はどうしても概念に目を向けるが、智慧が現実を認識するわけだ。


ブッダ以前にも瞑想の指導者はたくさんいたが、ヴィパッサナー瞑想は消え去っていたため、彼らは概念を使ったサマタ瞑想しか知らなかった。ブッダが概念と現実とを見分ける重要性を説いた。ブッダがいなければ誰も現実を知らず、この真実を理解する事はできなかった。



修行者

貪欲さがなくなったら人生の楽しみがなくなってしまいませんか?


長老

楽しい体験で貪欲になれば、楽しみが得られない時は苦しみが発生する。楽しみによって苦しみが発生し、苦しみがあったから楽を感じる事ができる。しかしその事に気づけば心は平穏になり、喜びが発生する。




修行者

日常生活で気づいているのは、全活動時間の1割ぐらいです。


長老

一日のうち1割は気づけても、あとの時間は楽しみに心を奪われたり、心配や不安で気づきどころではなくなってしまう。しかしそれらの貪欲さや怒り、不安なども気づきの対象にすれば2割は気づいていられる。


日常生活ではむしろ気分が滅入ったり、ストレスで苛立ったり、家族が心配になったりしている状態に気づいた方がいい。いい状態に気づくのもネガティブな状態に気づくのも、気づきには同じ価値がある。そしてネガティブな心理は、気づきによってポジティブな心理に変わる。



修行者

無我を理解する事は智慧の結果であって、智慧のない私たちにできる事ではないのでしょうか?


長老

私たちは毎日自分の心に目を向け、何かの対象があればそれに対する反応を観ている。それは既に智慧を探求する訓練をしている事になる。あとは無我を理解する訓練をする事だ。


無我を理解する訓練をしたければ、日常生活の中で何かを見たり思い出したりして、それに心が反応している事がわかったら、時々「見ているのは誰か?」「反応しているのは誰か?」と自問してみるといい。心身に生じる現象を、自然のものと理解しているかどうか調べるわけだ。



修行者

精神疾患の原因は何ですか?


長老

簡単に言えば、見たり聞いたり考えたりする体験の現実味が強すぎる事だ。自身の心理現象がいかにも現実のように思えてしかたないのだ。繰り返し気づきを適用していけば、自身が体験している事は心理現象だと気づき、現実味は薄れていく。



修行者

私は他人の目が気になってしかたないのですが、それも心理現象なのですか?


長老

他人が自分を見ているだけなのに、それに対して「あの人は私を笑っている」とか「私を攻撃しようとしている」などと思えば、それは妄想であり、それに現実味を強くおぼえている事になる。


他人の目が気になるのは、心が常に他者の方へ向かっているからだ。心を自身に向ければ他人の事は気にならなくなる。と言っても自分の事を妄想するという意味ではない。常に自身の身体感覚や心理状態に気づいていれば、周囲の人々の言う事など気にならなくなるという意味だ。



修行者

私は他人の目ではなく、自分の事、例えば部屋に鍵をかけ忘れたのではないかという思いに駆られて、いつも心配になってしまいます。


長老

だからそれも不安や心配について考えるから堂々巡りに陥るわけだ。そんな時も感情を観察し、決して思考に巻き込まれないようにする。


心配や不安がある時は、考えれば考えるほど心配や不安が増す。思考が燃料になって感情を一層燃え立たせるのだ。だから不安を鎮めるには、その不安を観察するしかない。不安が日常化すると「また鍵の事で不安になるのでは」という、不安になる事を恐れる感情まで出てきてしまう。



修行者

私は今その不安への恐怖が出てきて苦しんでいます。


長老

一旦何かで失敗したり、辛い思いをしたりすると、またその思いを味わう事になるのではないかという恐怖が生じる。だからそれもその恐怖を観察するしかない。だが、その恐怖は誰のものでもないと理解しておく必要がある。


心が恐怖や不安でいっぱいになっても、その感情を「私の恐怖」と思ってはならない。それらの感情は自然に属するものなのだから。自分のものにして執着すると状況を更に悪化させる。また、それらの感情は一瞬だけ生じては滅するもので、決して常に心にある永続的なものではない。



修行者

一旦心が動揺すると、感情や思考が止まらなくなって暴走します。


長老

だから私たちは日常生活でも常に気づいている必要がある。なぜなら暴走する感情や思考にブレーキをかけるものは気づきしかないからだ。感情や思考に気づくたびに動揺は収まり、心は落ち着いていく。


心を動揺させるものは思考だ。考えれば考えるほど心は激しく動揺する。だからそんな時はまず心を思考ではなく、感情の方に向ける。すると感情は続いたり激化したりする事ができなくなる。動揺のエネルギーが勢いを保っていても、あとは気づき続けていれば必ず心は落ち着く。




修行者

日常生活ではどうしても合宿の時のようには気づけません。


長老

生活の場と修行の場とを敢えて区別する必要はない。頑張り過ぎたり、やり過ぎたりしない方が気づきが生活の一部になりやすい。そして生活とか修行とか、日常とか非日常とかいう区別が徐々に消えていく。


日常生活では気づきを私たちの行動を逐一監視する監視人のように思うのではなく、心を整理するのを手伝ってくれるアシスタントのように思えば、生活の中に迎え入れやすくなる。気づきはあくまでも生活を支えるものなのだから。それによって精神生活が日常生活に結びついてくる。



修行者

瞑想修行は輪廻転生にどう影響しますか?


長老

初心者のうちは何に気づいても「私が対象に気づいた」と思っているし、気づきよりもいい体験をする事が大事と思っている。それがやがて「私」はなく、気づきと対象だけがあるとわかってくる。この学習は輪廻にまで波及する。



修行者

多くの修行者たちはナーマー(心)とルーパー(物)について聞いた事があっても、実際にはそれがどういうものか知りません。


長老

知識として知っているのと、実際に観察するのとでは別の話だ。物理的対象と言うと直ぐ色や形を想像するが、それがそもそも概念なのだから。


知識を得たり、考えたりしてナーマーとルーパーについて知ろうとしても、出来るものではない。洞察智は体験的に得るしかないのだから。自然を思考や概念抜きでありのままに見て、それを何度も繰り返し、何が概念で、何が概念抜きの自然の姿なのかを実際に体験するしかないのだ。


洞察は心に足場を築くために何度も繰り返して強化する必要がある。それは物事を考えて知るのではなく、一貫した認識で傾向を掴み、法則性を理解するのだ。洞察は心の中に自発的な思考として発生してくるが、後でその洞察を思い出しても、その時は洞察ではなく思考になっている。



修行者

概念抜きのありのままの現実の理解とは、無常・苦・無我を理解するという事ですか?


長老

それが現実の3つの特性だ。3つをバラバラに理解する人もいるが、十分な智慧がある人は、無常も苦も無我もみんな同じ事だと理解できる。それは理解のレベル次第というわけだ。



修行者

私は怒りっぽくて、つまらない事で直ぐ激昂します。


長老

怒りを引き起こすのは自身の考え方だ。同じ事を言われても怒る人もいれば怒らない人もいる。という事は、話の解釈のしかたで感情も変わってくるという事になる。だから考え方を変える事で苦しみも止まる。


思考は感情によって引き起こされるし、感情は思考によって引き起こされる。だから常に怒りに気づいていれば、怒りは減って心は穏やかになる。心が穏やかなれば考え方も変わる。自分を苦しめるものは自分の心以外にはない事に気づけば、苦しまないように手を打つ事ができる。



修行者

怒りを引き起こす思考とはどういうものですか?


長老

それは「私がいる」という考え方だ。非難されて「私は罵られた」と思えば怒るが「私」と思わなければ怒りは発生しない。見方が変われば考え方も変わる。見方を変えずに考え方だけを変える事はできない。




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  最終更新日 2023.12.31

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