F氏 日本人 30代 男性
実は、前回の第59話は、理由は定かではないものの多くの反響をいただいた。これは全く予想外の出来事だった。さらに驚いたことに、「同じような話は他にもないのか」というリクエストまでいただいた。そこで、ご期待に応えられるかどうかはわからないが、今回は前回少しだけ登場した「メンタル強化オタクのF氏」についてご紹介させていただくことにした。
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このF氏がミャンマー第2の都市、マンダレーの近くにあるピンウールィンという町のマハーシ式C瞑想センターの支部を訪れたのは、今から20年くらい前の2005年5月のこと。
C瞑想センター ピンウールィン支部
F氏は東京に住む30代前半の男性で、ミャンマーに来る前は建材会社の営業マンとして働いていた。主に建築会社や工務店を回っていたらしい。それがどうして仕事を辞めてまでミャンマーで瞑想修行をすることになったのか?
その理由は、「凹みやすい性格だからメンタルを強くしたい」というものだった。今で言う「ヘタレ」と言ったところだろう。
しかし、見た目からはそんな印象は全く受けない。ヒョロッとした長身で、どことなくマーク・ザッカーバーグを思わせる顔立ち。いつもニコニコしていて明るく、楽しい雰囲気をまとっている。
彼の話を聞いていると、「仕事がハードすぎたのでは?」
と思わずにはいられない。
しかし、F氏本人は「辛い仕事ではなかったものの、要領が悪かったもので」と繰り返し反省の言葉を口にする。確かに、そう言われると不器用そうな人にも見える。正直すぎるというか。
そのため、入社当時は社内でも営業先でも怒られてばかりで、仕事中は常に心がザワザワし、落ち着けない日々が続いたという。何をしていても「また失敗して叱られ、傷つくのではないか」という不安が頭から離れず、次第に胸がドキドキするようになった。やがてそれが日常化し、仕事そのものが苦痛に感じられるようになってしまった。
しかし、そんな彼を支えたのは、偉大な先人たちが開発したさまざまなメンタル強化法だった。F氏は、それらの方法を実際に自らの足で歩き回って学び、実践することで、多くの困難を乗り越えてきたのである。決してヘタレなどではなく、むしろ非常にタフな人間だと言えるのではないだろうか。
そして、F氏のそのような修行とも言える生活は、実に10年に及んだ。その中で彼は仏教や瞑想に出会い、次第に興味を深めていった。そして今回、遂に決意を固め、瞑想に専念するため仕事を辞め、はるばるミャンマーまでやって来たのだ。
ということで、F氏が歩き回って身につけたというメンタル強化法には、どのようなものがあったのだろうか。また、瞑想を始めたきっかけとは何だったのだろう。次はその経緯について見ていきたい。
F氏の修行遍歴
F氏は最初、自分が打たれ弱いと実感して、それを克服するために空手を始めたという。その頃はまだ、漠然と体を鍛えれば心も強くなると思っていたようだ。そして、辛いことも気合でどうにかなると、なんとなく信じていたらしい。
「空手を始めて、たしかに肉体的には強くなりました。忍耐力も身につきました。辛いことにも耐えられるようになっていったんです。当時の私は、精神的な痛みも根性や気合いで乗り越えるものだと思い込んでいました。だから、苦しみを克服する方法として、それ以外は考えもしなかったんです。でも、どれだけ耐えても耐えても、心は相変わらず傷つきやすいままでした。身体的には強くなっても、精神的にはまったく強くなれていなかったんです。」
その後、F氏はメンタルを強くする方法を求めて、本屋や図書館で関連書籍を片っ端から漁るようになったと言う。当時は今のように、検索すればすぐ情報が得られる時代ではなかったため、必要な情報を手に入れるのに相当苦労したのだそうだ。
「よく『心を強くする10のポイント』といった自己啓発本を見つけるたびに、必ず読んでいましたね。ああいう本って、『楽に生きるための10か条』とか、そんなサブタイトルがついてますよね。それに引き寄せられて、つい手に取ってしまうんです。でも、何十冊読んだかわかりませんが、やっぱり本を読んだだけでは心は強くならないんですよ。」
どれだけ魅力的なタイトルだったとしても、何十冊というのはすごい量だ。こういうところからも、F氏は自分がオタク気質だと自覚しているようだった。そして、そんな探求の旅の中で、ようやく巡り会えた1冊があった。それが、肥田春充の強健術について書かれた本だったのだ。
「世の中に心を強くするための身体的トレーニング方法が存在することを知り、長い間探し求めていたものをようやく見つけたような気持ちになりました。」
オタク気質のF氏らしい話だが、そうやって「丹田(体の中心部分)」を鍛えることでメンタルを強化できると知るや否や、それからというもの、暇さえあれば今度は肥田春充の本や、それ以外の丹田に関する本を次々と探し始めた。そして新たに、呼吸法で丹田を鍛える方法が書かれた本まで見つけたという。
「やり方は違うけど、言ってることは同じだと思いました。とにかく丹田を鍛えれば、心も体も強くなれるということですよね。みんな同じことを言うから、私も丹田を開発するメンタル強化法に確信を持ちました。」
そしてオタク気質のF氏は、次はあちこちの道場を駆け巡り、丹田の開発に無我夢中で取り組むようになったのであった。
苦を発見する
「それで直ぐにわかったのが、他人からクレームをつけられたり、説教されたりしている時でも、吐く息に心を込めていれば、何を言われても全然気にならなくなるということでした。」
そして、F氏は丹田を使った呼吸法の効果をすぐに実感し始めた。丹田で呼吸をしていると、他人から何を言われてもどこ吹く風で、蚊の鳴く声のようにしか聞こえなくなるというのだ。その効果は凄まじいものだが、一体丹田呼吸のどこに、これほどまで心を強靭にする秘訣が隠されているのだろうか?
実はこの話は、前回の記事にも登場した内容である。
前回の記事では、アメリカ人のD氏が「たとえ誰かに悪口を言われても、心の中で自分の姿をイメージしたり、その意味を解釈したりしなければ傷つかない」というアドバイスをもとに修行しているエピソードを描いた。D氏は、自分をイメージする時、心が必ず自分自身の方へ向いていることに気づいていた。そして、心を自分に向けなければ、自分をイメージすることはできない、という考え方であった。
F氏がその心理プロセスにまで気づいていたかどうかは定かではないが、息を吐くときに気持ちを込めると、心は相手に向かい、自分には決して向かない。そのため、その瞬間は心が傷つくことが絶対にない・・・
この点だけは、F氏もはっきりと理解していたようだ。そうした効果を実感したF氏にとって、丹田呼吸法は人生の一部となり、もはや欠かせないものとなっていった。
そして、日々の生活の中でスキマ時間を見つけては丹田呼吸法を続けるうち、F氏はある体験をした。それは、いつも胸のあたりにあってザワザワやムカムカとした不快感を呼び起こす感情のツボのようなものが、スッとお腹に落ちていくような感覚をおぼえたのだ。
「この感情のツボのようなものがあるからこそ、苦しみを感じるのだと思いました。これがいわゆる「我」というものなのでしょうか?嬉しくなったり悲しくなったり、他人から何かを言われて傷ついたりするのも、このツボが原因だと気づいたのです。そして、それが丹田に落ちて、しっかりとハマったんです。」
ここで、F氏が「感情のツボ」と呼んでいるものについて少し触れておきたい。彼は「我」という言葉を用いて説明しているが、実は仏教では「我」という概念をあまり用いない。この心身の中に主体的な何かが存在するようなことは決して言わないのだ。だからこれを「渇愛」と呼び、貪・瞋・痴の煩悩が集まって渦を巻きながら燃え上がる、強烈なエネルギーだと説明し
ている。
四聖諦
1. 人生には苦がつきまとう(苦諦)
2. 苦の原因は渇愛である(集諦)
3. 渇愛は滅尽できる(滅諦)
4. 渇愛を滅尽する方法がある(道諦)
「それがお腹に下ると同時に、いつも頭の中でゴチャゴチャと何かを考えていた意識も一緒に、スッと下の方に下がったんです。すると、頭の中が驚くほどスッキリして、何も考えられなくなり、感情のツボも何も感じなくなりました。心がものすごく静かな状態になったんです。」
この時、F氏は一時的に「苦」が発生しない状態を体験したわけだ。
瞑想を始めたF氏
そんな風に、あちこちの指導者を訪ね歩きながら、熱心に丹田の開発法を学んでいたF氏だったが、ある時、同じく丹田の開発を目指している人物から、今度は丹田呼吸法を用いた禅を勧められた。
「それまで瞑想を経験したことはありませんでしたが、それをきっかけに仏教や悟りの世界に興味を持つようになりました。」
この丹田呼吸法を使った禅は、常に心を丹田に置いて坐禅をするスタイルの方法だったという。フリーフォーカスという方法で心を自由にさせておき、その行き先のものを観察するヴィパッサナー瞑想とは少し異なる。
「だから、心が音の方や雑念の方へ行ってしまうことはありませんでした。しかし、だからと言って、それらを無視してはいけません。受け流すと言って、自分から雑念や音に寄り添うことはありませんが、向こうからやって来たものについては、一旦受け止め、それから手放すようにします。心は丹田にあるので、常に受け身の態勢を保っています。それを『受けて立つ横綱相撲』と言っていました。」
受けて立つ横綱相撲!?雑念や音を受け入れて立つのか?いいな、ヴィパッサナー瞑想でもやってみようか?とはいえ、こちらは前述の通りフリーフォーカスだから、受けて立つことはできないが。それはさておき、F氏はこの方法によっても、感情のツボが一瞬消える体験をしたという。
「そうなんですよ。やはり受けて立っているときは、胸のザワザワも消えているんです。これってどういうことなのかと思いましてね・・・・・」
そしてF氏のことだから、やはり禅や仏教に関しても徹底的に調べずにはいられなくなり、関連する本を読み漁り始めたのであった。
「それだけじゃないんですよ。私がやった禅では坐るとき、『肛門が見えるくらいに尻を突き出してから、背中を反らして垂直に立てるんだ』って指導されるんです。もう、腰が痛いのなんのって。」
本を読んでも内容は難しいし、坐り方も極めて辛い。そんな経験から、F氏の心は次第に禅から離れ、完全にチベット仏教やベトナム仏教、さらにはインド哲学へと向かっていった。
そして、F氏が特に興味を引かれたのが、
全時代を通じての最大の哲人の一人と言われる、J・クリシュナムルティだった。
「クリシュナムルティによれば、人々が苦しむ原因は、世界と自分が本来不可分であるにもかかわらず、『私』や『私の』という概念によって、それを分けてしまうことにあるそうです。つまり、この『私』というのは、あくまで心理現象であり、現実に実在するものではないのです。その話を聞いた時、確かにその通りだと思いました。というのも、苦しみは必ず『私』に関わることで生じるからです。『私』という概念がなければ、苦しみもまた存在しないはずです。」
そして、その話を聞いたとき、F氏はこれまでに何十冊も読んできた自己啓発本のことを思い出したという。それらはどれも、もっともらしい言葉が並んでいるものの、何かが違うように感じて仕方なかった。それはつまり、苦しみの原因を知らないまま、その解決策を提示しようとしていたからだと。
「そして、『私』という概念から脱却するためには、自分と世界を切り離さず、すべてをあるがままに受け入れることが必要です。それは、禅で言うところの『受け流す』という行為に通じます。『受け流す』状態にあるときは、自分と世界を分けていないため、『私』という存在が希薄になるのです。だからこそ、禅を修行しているとき、胸のザワザワが消えていたのかもしれません。」
つまり、F氏はこの時、「私」という概念と渇愛とが連動していることに気づいたのだ。
そしてヴィパッサナー瞑想へ
「だから、他人から非難されても、まずは相手の言葉を『うん』と受け入れるだけにしておけば、『私』という概念は発生せず、その言葉を『私が』非難されたように解釈せずに済むので、傷つかずにいられます。それは、吐く息に心を込めるのと同じ効果を持っています。これらの方法は本当に実践的で、心を守るのにとても役立ちました。」
ここまでざっとF氏の修行遍歴について簡単に触れてきたが、実際にはこの遍歴は、10年近くに及ぶ長い旅だった。何度も言うように、当時は今のようにスマホで少し検索すれば探しているものがすぐに見つかる時代ではなく、本当に大変な旅を経なければ、自分が求めるものに出会うことはできなかったのである。
「そんなことをしていた頃に、また別の方法に出会ったんです。それは、受け入れる方法や吐く息に心を込める方法と同じ効果を持つものでした。この方法も、非難されているときに使うと、相手の言葉を解釈したり、自分をイメージしたりせずに済むため、心を守ることができました。その方法とは・・・・」
実は、何を隠そう、その方法こそが「ラベリング」だったのだ。非難されたときに「聞こえている、聞こえている」とラベリングすることで、「ああ、私は今、非難されている」と過剰に解釈する必要がなくなり、心を傷つけずに済む。この方法もまた、心を守るために非常に効果的だ。
ではここで、吐く息に心を込めたり、目に映るものや耳に入る音、心に浮かぶものをすべて受け入れたり、ラベリングしたりした際の心の状態についても説明しておきたい。なぜそのような時は心が傷つかないのか。それは、前回から繰り返しているように、そうした時の心は身体の内側から外側へ向かっているからだ。
見るものや聞くものを受け入れたり、ラベリングするというのは、つまり「気づいている」状態を指す。「気づいている」とき、心は身体の内側から外側に向かっている。一方で、「気づいていない」時は、心が外側から身体の内側に向かっている状態になる。実際に試してみれば分かることだが、心が外側から内側に向かっている時は、自分を妄想の中に置き、「私の」や「私が」といった視点を加えた迷いの思考に陥っている。このため、結果として渇愛が発生し、苦しむ状況に追い込まれてしまう。
一方、心が内側から外側に向かっている時は、「私」という視点が生じない。だから、たとえ罵倒されようが、何かを奪われようが、苦しむことはない。というより、「苦しむ者」自体が存在しないのだ。
何はともあれ、こうして数々の紆余曲折を経た末に、F氏はようやくヴィパッサナー瞑想にたどり着いた。そして、それまでに身につけた丹田呼吸法や「受け入れる」技法と併用し、ラベリングも駆使しながら、日々の他者からのバッシングを乗り越えてきた。
「それで、やっとわかったんですよ。メンタルを強くするってどういう意味か。結局それって、気が強くなるとか、打たれ強くなるとか、そういうことじゃないんですよね。実際のところ、打たれ強くなんてなれませんよ。薬でも使って頭を麻痺させるくらいしか方法がないですから。」
「そうじゃなくて、本当に大事なのは、他人から言われたことを『私が言われた』と解釈しないでいられることなんです。『私が』と思わなければ、何を言われてもすぐにスルーできますからね。」
「つまり、メンタルを強くする方法って、他人の言うことに執着しない方法を身につけることなんですよ!」
そして、そのことに気づいたF氏は、そのスルー力を磨くために仕事を辞め、瞑想修行のためにミャンマーを訪れたのだった。
それにしても、10年間ブレずに同じ目標を追い続けていたのは本当に凄い。終始一貫したテーマで修行してきたからこそ、たどり着いた結論なのだろう。話を聞いていても、その説得力は圧倒的だった。やっぱり、F氏はヘタレなんかじゃない。ヘタレだったら、こんなことは到底できない。
新たなる修行のテーマ
しかし、そんなF氏に問題が浮上した。前述の通り、ヴィパッサナー瞑想は心を自由に漂わせる「フリーフォーカス」で行うものだ。にもかかわらず、彼は長年丹田に心を置く訓練を積んできたため、どうしても丹田から心を離すことができず、心を自由に保つことが困難なのだという。それどころか、心を丹田から離すことに対して不安さえ感じているようだ。
「どうしてもフリーフォーカスで行う必要があるのでしょうか?何か不具合でも生じるのですか?」
マハーシ式ヴィパッサナー瞑想では、足の痛みを観察することが重要なポイントとなる。そのため、常にフリーフォーカスの状態で、いつでも足の観察に移れる態勢を整えておく必要がある。つまり、フリーフォーカスでなければ適切に実践できないのだ。
そもそもミャンマーでは、瞑想修行をするときに身・受・心・法を順番に観察していく流派もあるが、ほとんどの流派はフリーフォーカスで観察する。ではなぜフリーフォーカスが主流なのかというと、それは「マハー・サティパッターナ・スッタ(大念住経)」に基づいてるかららしい。具体的にどの部分がフリーフォーカスを示してるのかはよくわからないが、「あれはフリーフォーカスのテキストだ」というのがミャンマー仏教での一般的な見解だ。
「いや、でも、それって、ずっと慣れ親しんだ安心できる場所を離れるみたいで、ちょっと怖いですよね・・・・・・・」
丹田バカ一代。そうだ、F氏はずっと丹田バカになって、丹田に執着することで、他人から投げつけられた言葉に執着しないようにしてきた人だ。フリーフォーカスに慣れるまでに時間がかかるのも無理はない。焦る必要はないし、少しずつ取り組んでいけばいいだろう。仕事も辞めて時間はたっぷりあるのだから。
そんなことを考えながらF氏の話を聞いていた私だったが、実は彼には「ゆっくりする時間」などないのだという。なぜなら、彼は瞑想修行用の長期滞在ビザを取得しておらず、たったひと月の観光ビザで滞在しているらしかったからだ。
「だから、もうすぐ帰らなきゃならないんです。」
えっ!
なんで瞑想修行用のビザを取らなかったの!?
仕事を辞めてまで来たのに・・・・
私は信じられない思いでいっぱいになり、F氏に問いただした。ここまで来て、ちゃんと修行せずに帰るなんて、あまりにももったいない話だからだ。
「いや、日本にいる時に、テーラワーダ仏教の信者でもない私が、そんなに瞑想センターに滞在していいのかなと思ったんですよ・・それに、海外暮らしをしたことがないので、長期滞在するのはちょっと不安で・・・・」
ガーン!
そんな心配、
しなくてもいいのに!
「私の場合、生まれつきの小心者と言いますか・・・ハハ・・・気が小さくて・・😅」
生まれつきって、なんてことだ・・・F氏、確かにあなたはヘタレではなかった・・・しかし、それは心配症というもので・・・
そんなわけで、これからがまさに良いところだという時に、またしてもF氏の前に新たな問題が立ちはだかった。そして、それこそが彼にとって次なる修行のテーマとなるものなのであった。