【ウ・テジャニヤ長老の名言第23集】

2025年1月3日金曜日

名言集

t f B! P L

 



先日、私はミャンマー中央部からタイ国境にかけて広がる標高1500メートルのシャン高原から、ミャンマー南部の旧首都ヤンゴンに行ってきました。移動手段は高速バスを利用しましたが、この国では現在内戦が激化しており、首都ネピドーを通る高速道路が全面通行止めとなっています。そのため、高速道路を使えないこのバスは、もはや高速とは名ばかりの、ただの長距離バスになっていました。

通常、シャン高原から高速道路を使ってヤンゴンまで行くと、所要時間は約8時間です。しかし、高速道路を使えない場合、移動に12時間以上かかります。さらに、現在は軍や警察が反政府勢力の摘発のため検問を強化しており、通行する車両の乗客全員に空港の保安検査と同じようなボディチェックや荷物検査が行われます。この検問の待ち時間だけで4時間もかかるため、最終的にシャン高原からヤンゴンまでの移動時間は従来の8時間の2倍、16時間を要しました。

ヤンゴンに到着し、役所に提出するためにパスポートをコピーすると、2枚で1000チャット(75円)だと言われ驚きました。今までは1枚10円ほどだったからです。高インフレの影響で物価が昨年に比べて3倍、4倍にもなっていたのです。ペットボトルのジュースも買おうと思っていたのですが、やめておきました。日本の何倍もするので贅沢品に思えたのです。

さらに、電力不足は深刻化していて、電気が使えるのは日没から夜明けまでの間と、正午前後の2時間ほどだけで、あとはずっと停電している状態です。ですから日中コンビニに入っても、店内は薄暗く、飲み物のコーナーの冷蔵庫は止まっています。このように国内の混乱ぶりは、ニュースを見なくても一目で分かるほどです。少なくとも私が知る20年間の中では、これほどひどい状況は初めてです。

しかし、そんな中でも、修行者を受け入れ再開している瞑想センターもあります。たとえば、チャンミャイ瞑想センターというマハーシ式の瞑想を学べる施設では、外国人の受け入れも行っているようです。「それでもミャンマーで本場のマハーシ式を学びたい」と思う方は、ぜひこちらにお問い合わせください。また、この瞑想センターのすぐ裏には、元政府の日本語通訳を務めた女性が住んでおり、通訳が必要な方はサポートを受けられるそうです。

【チャンミャイ瞑想センターはこちらから】



修行者

ケガのために長時間座る事ができません。こんな状態でも1日中修行を続ける方法はありますか?


長老

短時間でも心を落ち着かせる方法であればいくらでもある。別に30分座らなくても、10分の瞑想を1日3回やってもいいし、1時間に1度1分間だけ座るのでもいい。


長時間座って瞑想しなくても、短い瞑想を1日に何度も行う方法でも、暴走する心の勢いは止められる。どのようなやり方でも、心を落ち着かせるのに専念しさえすれば大丈夫。長時間座るのが当然のように考えず、大切なのは気づきの方と心得れば、好きなように調整して修行できる。




修行者

瞑想中に眠くなりましたが、合宿中の食事の献立について考えていたら目が覚めました。


長老

眠い時は心を活性化すれば目が覚める。しかしそれは気づきによって活性化させた方がいい。眠気に囚われるのも、思考に囚われるのも、貪欲さによるが、気づけば智慧で目が覚める。


眠い時、それに気づこうとするのは智慧だが、心地良さに没頭しようとするのは貪欲さだ。気づけば眠気が覚めるが、気づかなければ心地良さに囚われ眠りにおちる。つまり気づきを維持すれば智慧が増すが、気づかなければ貪欲さや無痴が増してしまうわけだ。




修行者

瞑想中に鼻に蚊が止まったので、心の恐怖感や嫌悪感を観ていました。しかし落ち着かず、逆にパニック状態に陥りました。


長老

それで十分瞑想になっている。恐怖感や嫌悪感が解決されなかったとしても、その状態に気づいていたのだから、瞑想は正しく行われている。


私たちは正しい方法で瞑想していれば、問題が解決されると思いがちだ。だから解決されなければ、瞑想が上手くいってないように思ってしまう。だが瞑想とは起こっている事に気づくのが目的であって、問題を解決するためのものではない。何事にも気づいていればそれで十分なのだ。




修行者

瞑想中、考えている事に気づくのが遅く、いつも思考に巻き込まれます。どうしたら素速く気づけますか?


長老

気づきを育てるには、心身に生じる感覚や思考、感情に対する正しい態度が必要だ。つまり大切なのは対象ではなく、気づく事そのものの方だと理解する事だ。


たとえ良い思い出が甦ろうとも、嫌な思い出が甦ろうとも、それらは単に気づきの対象でしかない。良い思い出に気づくのも、嫌な思い出に気づくのも、気づきは気づきで同等なのだ。気づきが更なる気づきと洞察を生む。だから、気づきを育てる事こそが修行の目的と心得る事だ。




修行者

瞑想する度に去って行った元妻を思い出し、彼女にした仕打ちの罪悪感に圧倒されて瞑想できなくなってしまいます。


長老

心身に起こる現象全てを自然のものと観る。思い出す人も出来事も、罪悪感も「私がやった」「私の感情」ではなく、自然が起こした自然の現象と観る。


もし瞑想中に感情に圧倒されそうになったら、心を一旦呼吸に移し、感情をやり過ごしてからまた心の観察に戻る。感情は軽く気づくだけで十分。決して「私の感情」と思わず自然を観察していると見なせば「私が」「私の」と思う度に何らかの感情が発生してくる事に気づくだろう。




修行者

承認欲求を起因とするストレスを解消したいのですが、気づいているだけでは苦しさがなくなりません。


長老

気づきとは「ただ起こっている事を認識する事」であり、それ以上の事をするわけではない。気づきが即座に問題を解決するのではないから、それを期待する事はできない。


マインドフルネス瞑想は気づき自体が重要な足がかりになる。つまり気づき続ける事で体験を変えるような智慧に達するのだ。答えが得られる時には得られるわけだ。だから、その間はひたすら気づきを継続するしかない。何かが変わる事を期待しながらやると智慧が出てこない



修行者

心身への執着について学びたいのですが、その理解が限られています。煩悩が残っているからですか?


長老

煩悩を失くす必要はない。あっても構わない。大切なのは正しい考え方を持って観察し続ける事だ。これまであなたが学んできた事で十分だから、そのまま続ければいい。


修行者の最大の問題は、自分の修行が十分ではないように感じる事だ。その考えこそが障害となって進歩を妨げる。「何が起こっても気づいていればそれで十分」という態度でどこまでも気づきを継続させれば、修行は確実に伸びていく。つまり焦らずにゆっくり進めという事だ。




修行者

私は介護者で、瞑想を始めて4年になります。以前に比べるとかなり冷静に問題に対処できるようになりました。しかし、まだ修行に対して決意や緊迫感が足りないと思っています。


長老

あなたは心身に起こる事に気づけている。それで十分。焦らずにゆっくり進む事が大切だ。


「焦らずにゆっくり着実に進めば勝利を得る」これが修行の正しい心構えだ。「もっとしなければならない。今の自分では不十分だ」という思いは修行の妨げとなる。日常生活の中で、できるだけ今している事に気づくだけで十分。その気づきを継続する事。それが修行の全てだ。



修行者

気づき続けていたら心が空っぽになりましたが、実際には空っぽには感じませんでした。


長老

それはあなたが体験している事だから、ただ認識すればいい。そしてまた気づきに戻る。その体験について何か解釈したり、理論に当てはめて物語を創ったりするとそれに囚われる。


瞑想中に何か変わった体験をしても、それを大袈裟に扱わない事だ。単なる修行の一部にすぎないのだから。私たちは何かを体験しようとしているのではない。心身に起こる事に気づこうとしているのだ。体験の道ではなく、気づきの道を行くと心得て、気づきに留まる必要がある。




修行者

今朝、頭痛と体のだるさを感じましたが、その感覚をそのままにして、それに続く嫌悪感を観察したら直ぐ消えました。


長老

あなたは修行に熟練している。瞑想時の正しい心構えを理解し、起こっている事とどう向き合うかを良く理解している。だからそのような結果を得た。


瞑想中に心身に起こる現象の扱い方を知っている時は、その事にも気づいておくともっといい。熟練さも気づきの対象なのだから。また、嫌悪感を消すのは修行の目的ではない。あくまでも正しい理解の結果として嫌悪感が消えたのであり、その理解を意図的に生じさせる事はできない。





修行者

瞑想中に気づきに気づく事は必要ですか?


長老

最初のうちは誰でも呼吸のような対象に集中する事から始める。そして他の事に気を取られては戻るのを繰り返す。そのうち対象と共に「知覚する心」も認識できるようになる。そして知覚する心により注意を向けるようになる。


瞑想中に雑念や思い出、感情ばかり観ていると、それらに気を取られて、消そうとしたり変えようとしたりして、気づきを忘れやすくなる。しかし気づきの方を追っていれば、常に心が観察している状態にある事を確認しながらいられる。つまり思考に囚われ難くくなるわけだ。




修行者

自然の美しさが好きで、風に揺れる木の葉のようなものにも惹かれます。これは執着ですか?


長老

その気持ちを感謝の気持ちと知る。瞑想とはそんな気持ちや感情などの心の状態を知る事だ。執着があるかどうかわかるのは自分だけで、他人が判断する事はできない。


もしあなたが何かに惹かれていて、それを失う事を恐れていたら、そこには執着がある。それは自分で確認するしかない。そういう全ての状況において起こっている事を瞬時に自覚するのが瞑想だ。別に「感謝の気持ち」と言葉にできなくてもいい。そういう気持ちがあると知る事だ。



修行者

瞑想中に体験した事を探究するのは良い事ですか?


長老

体験に基づく理解や洞察がないままに、その体験を追いかけるのは、単なる妄想であり、心を気づきから遠ざける。もし本当に何らかの悟りを得たのであれば、心は更に一層智慧を求めて、気づきを継続させるようになる。




修行者

座る瞑想の度に眠気に襲われます。体がビクッと動いて目が覚める事が良くあります。


長老

瞑想中に心が言う事を聞かなくなったら、立ち上がって歩く瞑想に切り替えた方がいい。居眠りは癖になるので、座る瞑想の度に眠ってしまう習慣を身につけないようにする事だ。


私たちの心は、元々習慣的なパターンで満たされている。心は何でも習慣化して身につけてしまおうとするのだ。だから悪しき習慣を身につける事だけは避けたい。眠い時は頭の上に物を置く方法もある。物が落ちないようにしようとして、心が活性化して目が覚めるからだ。




修行者

何かをしようとする度に「私」がそこにいる事に気づきます。


長老

長い間の習慣のため、人々の心には何かを行う度に「私」が存在する事になる。「私が見る」「私が聞く」「私の顔」「私の家」等、習慣づけられた考え方で人々は苦しむ。修行をするにも「私」が伴う。


人が何かを行う度に「私が行う」という考えが、その心理プロセスに含まれてくる。だから修行者にできる事は、ただそれに気づく事だけだ。気づき続けていれば、やがて行為というのも自然の一部であり、心の性質の一つである事を理解する。そうすれば行為に伴う「私」は消える。




修行者

私には障害を抱えた子がいます。なぜこんな事になったのかと憤りをおぼえます。


長老

ただ言えるのは、それは誰のせいでもないという事だけだ。全ての事象は複数の原因が結びついて結果を生む。それが宇宙の法則の本質であり、起こった事の全ての原因を知る事はできない。


過去に起こった問題を考えて、未来に備えるのは自然な事だ。しかし実際にはまだ起こっていない事を、また必ず繰り返されると信じると心が折れる。それはあくまでも予測に過ぎないのだから。現実には「また」は存在せず、今起こっている事があるだけと思い直して前に進むしかない。




修行者

瞑想中に体験した事を、瞑想しながら熟考して理解を深めてもいいでしょうか?


長老

瞑想中に体験した事について考え、結論を出そうとするのはよくない。体験して何かを理解したのならそれで十分だ。観察は既に終わり、その体験を観ている瞬間に何かを悟っているのだから。


既に過ぎ去ってしまった体験について考えるより、今に関心を持ち、気づきを継続させた方がずっと有益だ。もし考えるのであれば、体験についてではなく、気づき方や、気づきを認識できていたか、あるいは気づきを継続させるための方法について考えるのであれば何の問題もない。




修行者

瞑想について考えるよりも、一瞬の気づきの方が有益なのですか?


長老

瞑想についていくら賢く正しく考えたとしても、それは一瞬の気づきにかなうものではない。その瞬間が心を解放するからだ。たとえ手が触れる感覚を感じるだけでも、人生の重荷から自由になれるのだ。




修行者

いつも「自分は不十分だ。もっと努力が必要だ」と思ってしまい、そのせいで更に自信を失います。


長老

私が自分に自信が持てなかった時は、シンプルな解決策として、気づきに没頭していた。やるべき事を気づきながら行い、感情が出ても気づくだけにして治そうとしなかった。


心には五つの要素(五根)があり、それらの信・精進・念・定・慧でバランスをとっている。だから気づきを継続させれば念・精進・定が高まり、自然と信も増す事になる。それによって思考は減り、意識が鮮明になり、心は穏やかで落ち着き、力強くなって、自信が湧いてくるわけだ。




修行者

何をやってもダメな自分を克服するための努力は要らないのですか?


長老

そのような考えが浮かんでも、決して信じてはならない。それは自身のネガティブなストーリーを現実のものと信じ込んでいるだけだ。そのような思考が浮かんだら「私の」と思わず、ただ気づく事だ。


「私はダメ人間」などという、自身についてのネガティブなストーリーは、自信を奪い、無駄な努力に向かわせるだけの有害な思考だ。そんな時は考えるのを止め、気づきを継続させるしかない。有害な思考が習慣化しているので、これからは気づきを新しい習慣にする事だ。




修行者

悟りのための十波羅蜜を完成させるにはどうすればいいですか?


長老

十波羅蜜の実践時に心を観ておく事だ。例えば布施を行う時、惜しみなく与えているか?ためらっているか?五戒を守る時も、喜んでいるか?嫌がっているか?を観ておく。観るだけで自分を変える必要はない。




修行者

認知症の母が「神が私を召そうとしている」と言って死の準備をし、私にもそれを手伝わさせます。私はそんな妄想に付き合わされる度に苛立ちます。


長老

私たちは他人のせいでストレスを感じると思っているが、実際には自分の考えに執着する事でストレスが発生しているのだ。


私たちの心を動揺させるのは外部の何かではない。自分の考え方だ。その考えにどれだけ執着しているかでストレスの強さも違ってくる。だから、まず苛立ちに気づき、意識を鮮明にし、それから自分の考え方のどこに執着しているかを観る。それによって執着を緩める事ができる。




修行者

瞑想中はとても暑かったのに、誰かが植物に水をやる音を聞いたら、それだけで体が涼しくなりました。


長老

それは水があなたに届いたのではなく、心が涼しさを創り出したのだ。あなたが冷たさをイメージした事によって。この現象をCittajarupa(心によって生じた物質)と呼ぶ。


心理状態の変化によって体が変わったら、それを良く観察するといい。何度も観察しているうちに、心が体を変化させているのがわかってくる。気づきが良く継続されている時は「寒い」と思えば体も寒くなる。寒い時に熱を思い浮かべる事で、暖房も毛布もなしで修行している人もいる。




修行者

嫉妬心を観察していましたが、とても巻き込まれやすく、観察する意識を観るようにしました。しかし、それでも観る事ができませんでした。


長老

煩悩が強力で、粘着性の場合は、観察する意識を観るのも難しい。そんな時は呼吸に注意を移し、嫉妬心が収まるまで待つしかない。



修行者

心の機能のうち、感覚を知るサンニャー(sanna=想)というのは、感覚をありのままに知る機能なのですか?


長老

いや、サンニャーは概念を作る機能だ。現実に概念を当てはめて意味を作る。実際は自然には意味はないが、サンニャーが意味を作っている。意味も概念だ。


実際には自然のものには何の意味もない。ただ現れては消えるだけだ。何か意味を見出したとすれば、それはありのままの自然ではなく、サンニャーを見ている事になる。しかし自然のありのままを理解していても、その理解を言葉で表現するには、やはり概念を使うしかない。




修行者

寝ている間に見る夢は、何かを暗示しているのですか?


長老

夢を見る事は考える事だ。それだけの事で、特別な意味はない。中には夢が重要だと思っている人もいるが、実際には、寝ている間にも心が働いているだけだ。心が思考やイメージを創り出しているのだ。




修行者

無我という教えをどう理解したらいいのでしょう?


長老

私は、修行者が「自分はいない」「私はいない」と理解したと言うと、「では、自分も私もないのなら、その心身は何だ?」と尋ねる事にしている。それで本当に無我を理解しているかどうかがわかるからだ。


無我を悟っても、そこには依然として「プロセス」が存在している。因果のプロセスも、名色(心と物質)のプロセスもある。唯一異なるのは見方だ。この心身を「私」と見るか「自然」と見るかが違ってくる。つまり誤った見方(邪見)から正しい見方(正見)に変わるわけだ。




修行者

心は変わりやすいので、気づきを失うと、慈しみを実践していても、直ぐ怒りや嫌悪の思考に変わります。


長老

最初に「私の思考」「私の怒り」といった考え方を改め、「私」抜きでありのままに観る事を心がけると、気づきを継続させやすくなり、心を見失わなくなる。




修行者

では「私」抜きで物事を見る正しい見方はどうやったら身につきますか?


長老

「私が気づいている」と思いながらの気づきでは不十分だから、その場合は23の正しい態度を適用して自身を正しい見方に導く。だが、気づいている事に気づいた時は、既に正しい見方は存在している。


正しい見解は、気づきの心が発生する事に気づける時に存在する。なぜなら全ての心は無常(anicca)、苦(dukkha)、無我(anatta)の性質があるからだ。つまり、概念抜きのありのままの現実、本来の自然を理解できるのは、智慧だけだという事だ。


まだ、瞑想の初心者のうちは、誰でも「私が見た、聞いた」と認識しているが、気づきに慣れてくると、ただ「見た、聞いた」とだけ認識するようになる。だが「私の体験」の方は思考を通じて認識されるが、ありのままの現実の方は、気づきによって認識されているという違いがある。


修行者

瞑想に興味がある時とない時とでは、心の状態が全く違う事がわかりました。どうすれば興味を持続できますか?


長老

常に心の状態を知るようにする事だ。そして興味がある時は気づきも良いと知り、ない時は気づきも良くないと知る。それによって心は良い状態でいようとする。


心身の事を忘れて、心だけ先に行ってしまうと興味は外部の刺激に向かう。しかし、常に今の瞬間に心身に起こっている事を確認しながら過ごせば、心は充実し、心身の状態に向かう。思考と感情との相関関係や、感情と身体の状態との相関関係を観れば、更に興味が湧いてくる。



修行者

貪欲になると、心が「これはとても重要な事だ」と言うので、気づくのが大変です。


長老

心が「とても重要」と言うのは、煩悩から来る場合と、智慧から来る場合とがある。貪欲さや恐れ、不安などから来るものは「急げ急げ」と焦らせ、エネルギーが急激に高まっていく。


智慧が「これは重要」と自身に働きかけて来る場合は、心の質も健全で心地良く、落ち着いている。しかし貪欲さや恐れに「これは重要」と思わされている場合は、心は焦り、苦しみ、動揺している。智慧はそれをどう成し遂げるかを考えるが、煩悩はただ結果だけを求める。



修行者

「自分」という存在は心が作り上げたものなのですか?


長老

モーハ(無明)が知覚と思考を通して「自分」という存在を作る。それが理解できると、非難されても、何かを失っても、「私が」とか「私のものが」などと思わなくなるので苦が減る。そして心は一層気づきに向かう。



修行者

瞑想は時間がある時に落ち着いてやった方がいいのですか?


長老

私たちはよく、日常生活の中で「後で瞑想しよう」と思い、その時やっている事が終わってから座ってじっくりと瞑想しようとする。しかし、智慧の心は「瞑想なら今、ここでできる」と教えてくれる。


瞑想とは、別に座って落ち着いてやらなくても、ただ心の中で何が起こっているかを知るだけでもいい。静かでいる必要も、連続している必要もないのだ。「瞑想とは今、ここで修行できる」という考え方は、とても力強い。それは欺く心を打ち壊してくれるものだからだ。



修行者

ラベリングせずにいると、気づいているかどうかわかりません。


長老

ラベリングをしなくても、心身に起こる、見たり聞いたり感じたりの感覚や、思考、感情などに注意を向けている時は、既にそれに気づいている。そこに対象があると知った時は、もう気づいていると思っていい。


私は今、修行者のあなたを見ているが、心が見ているとわかっているならば、長い習慣のお陰で、既に気づきが存在している。心が心身に起こる感覚でも雑念や感情でも、何らかの対象に注意を向けた時というのは、心が自動的に起こっている事を知っている時なわけだ。



修行者

いい夢を見ながら寝る方法はありますか?


長老

夢を良いものにしようとするのは無意味な試みだ。それと同様、この世界で自分の人生を完璧にしようとするのも、快楽に没頭したいだけの無意味な試みだ。幻想を追うよりも、私たちは気づきを持ってその夢から覚めるべきなのだ。









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  最終更新日 2023.12.31

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