【修行者列伝〈ミャンマーで出逢った修行者たち〉#59】幻を見抜いた修行者

2024年9月13日金曜日

修行者列伝

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D氏 アメリカ人 20代 男性



マサチューセッツ州ケンブリッジ


ハーバード大学の大学院で神学を学ぶユダヤ教徒のD氏が、仏教国ミャンマーのS瞑想センターを訪れたのが2016年1月。彼はちょうどこのシリーズ第22話に登場するドイツ人修行者J氏と入れ替わるような形で宿舎に入ってきた。



D氏は寡黙だが、いつも笑みを絶やさず、どんな人にでも敬意を持って接する謙虚な好青年だ。言葉の端々からは、常に相手に対する細かい気配りが感じられた。


やあ、もう朝食の時間だよ。

あとは明日にしようよ


彼に掃除をさせようものなら、階段の手すりの誰の目にもつかないような部分の汚れを、一生懸命にこすって落としている。そうやって止めなければ、食事の時間も忘れていつまでもやっていそうだ。


そのD氏のトレード・マークと言えば、優しい眼差しと肩まで伸びた長い黒髪だった。それに口髭と顎髭を蓄えた姿は、キリストを彷彿とさせた。実際、彼はイスラエル系なのだという。





そして修行中はその長髪を頭頂で束ねていたのだが、その束ね方がチョンマゲそのものだった。


それって昔の日本人男性のスタイルだよ!


「うん、サムライだろ?」


だから私がそのように言うと、彼は既にその事を知っていた。なぜなら彼は、宮崎駿の大ファンで、日本びいきでもあったからだ。


一神教と仏教



「それで『もうダメだ』と思って銃をとって銃爪を引こうとしたんだ」


そんなD氏であったが、数年前には精神のバランスを崩し、のたうち回った事もあるという。そして絶望の挙げ句、そこまで追い込まれたりもしたらしい。しかし、どうでもいいが、銃社会の人は銃爪を引くだけで簡単にタヒれるから恐ろしい。痛い、苦しいと思えば、ためらって考え直したりもできるが、苦しまなければ中々考え直せないではないか。


それで仏教を受け入れたのかな?


深刻な話なので、突っ込んで聞いたりはしていないが、ユダヤ教徒で、将来は指導的立場に就くであろうD氏が、なぜ仏教の修行をしているのか私には疑問だった。しかし、今の話から察するに、やはり心の問題を解決するために、仏教と瞑想修行とを求めたように思える。


だが、そうは言っても、ユダヤ教徒が異教の修行をするとは一体どういう事なのだろう?何か問題はないのか?抵抗なく入って来られるものなのか?


マインドフルネス・ストレス低減法の創始者
ジョン・カバット・ジン


D氏が住んでいるケンブリッジは、言わばマインドフルネス瞑想のメッカみたいな所だ。
近くには1970年代に設立された、アメリカのマインドフルネス瞑想の発祥の地とも言える、マサチューセッツ大学のマインドフルネスセンター(CFM)や洞察瞑想協会(IMS)があり、マインドフルネス・ストレス低減法の創始者のジョン・カバット・ジンやアメリカにマインドフルネス瞑想を持ち込んだジョセフ・ゴールドシュタインなどの有名な指導者たちが活動している。だから、指導者や瞑想センターを探すのに手間はかからない。もちろんD氏は彼ら有名な指導者たちの元へ行って直接指導して貰っていたという。


↑CFMのご案内はこちらからどうぞ


そして彼らジョン・カバット・ジンやジョセフ・ゴールドシュタイン、更に70年代にアジアに渡って瞑想修行をし、アメリカにマインドフルネス瞑想を持ち帰ったジャック・コーンフィールドやシャロン・サルツバーグ、あるいはラム・ダスらのパイオニアたちは、実はみんなユダヤ教からの改宗者なのだという。つまりD氏は、彼らの歩いた跡をたどって、スンナリと瞑想修行に入って来る事ができたようだ。


そして、それから明らかになるのは、アメリカにマインドフルネス瞑想をもたらしたのは、精神的に行き詰まったユダヤ教徒の若者たちだったという事だ。そして、彼らを受け入れ、瞑想を教えたのが、アーチャン・チャーやゴエンカ氏、M瞑想センターの長老たち、そしてニーム・カロリ・ババといった、タイやビルマ、インドの瞑想指導者たちだった訳だ。


では、なぜユダヤ教徒の彼らが仏教徒になるのだろう?ユダヤ教と仏教は何か共通点でもあるのだろうか?


ロジャー・カメネッツ著/蓮華の中のユダヤ人


現在アメリカでは、ユダヤ教から仏教に改宗した人はJUBU(Jewish Buddhistの略)と呼ばれ、急増中なのだという。最初にその呼称が出てくるのは、1994年に出版されて全米で大ベストセラーになった、ロジャー・カネメッツの著書「The Jewish in the lotus」(蓮華の中のユダヤ人)という本だ。この中にはダライ・ラマとユダヤ教の聖職者との対談が収められている他、ユダヤ教と仏教との共通点が挙げられ、ユダヤ教徒としてのアイデンティティを保ちながら、仏教徒として生きる人々が紹介されている。


その中で言われている事は、まず仏教には神がいないから、宗教と言うよりも、むしろ心理学と見なされているという話だ。そして次に仏教は、現代の世俗化してしまったユダヤ教徒たちの心を満たすという話。つまり仏教は彼らの心の隙間にピタリとハマるらしい。


なぜならユダヤ文化というのは、本来は心を理解する事で苦しみを乗り越え、物事を理解する性質のものだったからだ。だが今のアメリカのユダヤ教は、すっかり世俗化してしまい、人々の心の飢えを満たすまではいかなくなっているのだという。


一方で仏教は、心の理解に最も重点を置き、仏教学者から、煩瑣極まりないと呆れられるほど詳細に分析した心理学を土台に、苦を乗り越えるための教えが展開されていく・・・このような精密な分析は、本当にユダヤ教徒たちを魅了するらしい。


そういう理由で、昨今のアメリカのユダヤ教徒たちは、仏教を高度な心理学と見なし、親近感を持って見ている。ユダヤ教徒の精神を保ちながら、ユダヤ教徒のまま改宗しなくても瞑想修行ができる、ユダヤ教徒専用のマインドフルネス瞑想団体が幾つもあるという。


D氏のやってきた瞑想法




「近くに有名な指導者たちがいたからといって、頻繁に指導を受けられた訳じゃないよ。確かにIMSは近くにあったし、リトリートにも出た事がある。不安障害の特別講習なんかもあって、素晴らしい指導を受けられた。でも料金は10日間で2000ドル(約30万円)だよ。MBSR(マインドフルネス・ストレス低減法)の場合は2か月かけてやるから1泊100ドル(約15000円)になるけど、それでも俺には手が出なかった。ジョン・カバット・ジンの週末の3日間リトリートでさえ500ドル(約75000円)したよ。だから俺は専らオンライン指導を受けていたんだ。彼らの所は近いけど、本当に遠く感じたね。ミャンマーの方がずっと近くに感じるよ」


↑IMSのご案内はこちらからどうぞ


地元に瞑想センターがあり、有名な指導者たちがいたものの、実際にはD氏は彼らから十分な指導を受けられた訳ではなかったのだ。その辺りの事情は、学生さんだから言わずもがな知れた事だ。


IMS(洞察瞑想協会)


念のため確認してみると、IMSはなるほどホテル並みの外観だ。部屋は全室個室で衛生的で、快適。瞑想ホールは森の中で騒音がなく、聞こえるのは鳥や虫の鳴き声だけ。食事は無農薬の野菜だけを使った菜食料理で、デザート類も一切食品添加物が含まれていないものばかり。そんなのが一日3食。それに指導料が加われば、そりゃあ確かに一泊200ドルするわな。最高の環境じゃないか。


S瞑想センターは全室2人部屋


それでもD氏は、不安障害の特別講習で教わった方法の効果を実感していた。そしてその方法で、2か月ぐらいみっちりと修行してみたいと思っていた。だから地元が無理ならばと、はるばるミャンマーまで来た訳だ。ではそのD氏が効果を実感した方法とは、どんなものだったのかと言うと、いくつかあるが、まずはマハー・サティパッターナ・スッタ(大念住経)を使った身受心法を観察する瞑想があったという。


↑不安障害のための瞑想はこちらから


でも、普通はマインドフルネス瞑想って、マハー・サティパッターナ・スッタに基づいてるものなんじゃないの?それって何か普通のやり方と違うものでもあるの?


と、D氏の話を聞いていて、ふと疑問に思ったのだが、実はこれが大ありだったのだ。


このように、自分にとって 身体 は身体にすぎない、わたしのものでもなく、わたしでもなく、自分でもなく、現象にすぎない、といつも感じて生きるのです。 他人にとっても 身体は身体にすぎない、といつも感じて生きるのです。 自分にとっても他人にとっても、 身体は身体にすぎない、といつも感じて生きるのです。(マハー・サティパッターナ・スッタより)


【マハーサティパッターナスッタはこちら】


ここでちょっとだけ、マハー・サティパッターナ・スッタの中に、正しい心身の観察のしかたが説かれている部分があるので、引用させて貰った。有難い事にウ・ジョティカ長老がパーリ語から英訳したマハー・サティパッターナ・スッタを、そのまま日本語に訳されている方がいたので、その方の許可を頂いてその訳を使わせて貰った。


そして嬉しい事にその方は、注釈まで付けてこの部分を判りやすく説明されているので、そちらも併せて使わせて頂く事にする。


注1)ここでいう “身体” とは、呼吸の流れのことを意味しています。

注2)修行者は、呼吸しているのは、自分ではなく、ただ呼吸だけが存在している、と自分に対して推測するように、他人に対しても同じように推測します。これが、外部の現象に関する幻想を、消し去ってくれます。

注3)自分に対する推測と、他人に対する推測と、同時にではなく、それぞれ交互に推測します。

注4)「他人にとっての身体」 とは、客観的に観察している状態のことではない か、というのがわたしの解釈です。客観的観察とは、自分が他人になる ことです。だから、ここは、どのように観察しようとも、くらいの意味では ないかと考えています。


つまりこの部分は、自分の呼吸を観察する時は、「私が呼吸している」という思いを持たず、呼吸している事実だけを観察し、他人が呼吸しているのを観る時も、「彼が」という思いを持たず、その事実だけを観察する。そして、自意識を使って自分を客観的に観る時も、「これは私」と思わずに、ただ事実だけを観察するという意味になる。


早い話がこの部分は、身受心法を主観的に観る時も、客観的に観る時も「この心身は私」と思わずに観察するという旨の教えな訳だ。つまり「私」「あなた」「彼・彼女」も、みんな概念だから、概念に囚われずにありのままでいなさいという話だ。


「心を病んでいる人は、他人の評価を気にして、自分を想像し過ぎるんだ。他人といる時でも、どう思われるか不安で、自分を想像してばかりいて、ちっとも他人の事なんか考えていない。そうやって疲弊してしまうんだ。だから病んでいる人は、その事にちゃんと気づかないと苦しみの悪循環にハマるのさ」


なるほど。病んでいる人は、自分を客観的に見てばかりいると。そしてその事をちゃんと自覚しておく必要がある訳だ。


「だから、他人からどう思われるか心配になった時は、まずその気持ちに気づく事。そして自分がどう思われているか想像した時は、それにも気づく。その時に肝心なのは、そのイメージを『俺だ』と思わないようにする事なんだ。これはマハー・サティパッターナ・スッタでも説かれている重要な事だよ」


おおっ!そういう意味か!確かに自分を客観的に観ても自分と思わずにありのままに観ろとあるな!自分のものにしてしまわないで「自然のもの」として受け入れる訳だ!なるほど、経典通りだ!


「これは座る瞑想より、むしろ日常生活で使う方法だね。自意識が出たら直ぐ気づくようにして、できるだけ自分を想像するところまで行かないようにするのがベストだけど、どうしてもまだ、自分を想像してから気づいてしまうんだ。だから、今は主観でいるのか、客観でいるのか、主客どちらにいるのかを絶えず気にしている状態さ」





心を自分に向けず外に向ける


「自分の頭から抜け出して、心を外に向け、その瞬間の会話、活動、人に集中する」全米社会不安センター創設者ラリー・A・コーエン


それからD氏が効果を実感したのが、心を外に向けるトレーニングだったという。これはどういうものかと言うと、心を外に向けるとは、つまり主観的に物事を見る事であり、心を自分に向けるとは、客観的に物事を見る事になる。試して頂ければ判るが、主観的に物事を見る時は、心を自分から外に向けているし、客観的に自分を見る時は、心が一旦身体から外に出て、そこから自分の方に注意を向けているような気がする。


「心を病んでいる人は、心を自分の方にばかり向けているんだ。だから心を外に向けるトレーニングが必要になる。これはリラックスして座って目を閉じて、心を聞こえてくる音の方に向けるだけの簡単な方法さ。心が身体から飛び出して、音に向かう感じだね。サマタ瞑想と違うのは、一点に集中するのではなく、心が音の方に行って消えたら、直ぐ別の音に向かって心を飛ばす事かな。これをやってると、あまり心を自分に向けて、自分を想像しなくなるんだよ。ひたすら自分から外の方向に向けて飛ばすんだ」


それを聞いた時、私はミャンマーに来て一番最初に教わった瞑想の心得の事を思い出した。と、いうのは、私は2002年にミャンマーに渡り、まず最初にC瞑想センターという、マハーシ式の瞑想センターに滞在したのだが、そこで開口一番指導者が言った事は「心を身体の外に出さないように」という指示だったからだ。


これは、どういう事かと言うと、常に心を身体の中に置き、中から外を見る方向で物事を見なさいという意味だった。「他人にどう思われるか」を気にして心が外に出ると、外から自分を見て気づきを失い、迷いの思考に陥ってしまうからだという。


だが、私はそう言われた時、頭の中にとあるイメージが浮かんだ。それは心が前の方にスーッと出ていき、そこでクルリと振り返り、自分を見るというものだった。そして驚いて指導者に言った。


えっ!?

心ってそんな風に動くものなんですか!?


指導者はその時、実際には心が外に出たり、中に入ったりしている訳ではないが、そのように感じられるという意味でそう言ったのだが、私はその譬え話をすっかり本気にしていたのだからマヌケだ。心が中にあるとは、つまり主観でいる事だ。外から自分を見るとは、自分を想像して客観視する事になる。言い方は違うが、これはD氏の言っている事と良く似ている。違うのは、こちらは心が飛び出していかない点だ。


また、それから3年後の2005年にも、私はC瞑想センターで、F氏という、自称「ヘタレ」の30代の日本人男性に遭っている。このF氏はメンタル強化のため、それまで武道や強健術など色んな方法を試した経験のある、メンタル強化オタクみたいな人だった。


そのF氏が、最も効果があると言っていたのが、丹田呼吸法というものだった。これは常に丹田で呼吸し、心を丹田に収め、物事を丹田から見るというメンタル強化法だ。心が丹田にある時は、心が安定し、悩みの思考に陥らないが、心が丹田から離れたとたんにヘタレになると言っていた。


心が丹田にあるとは、つまり主観でいる時であり、心が丹田から離れた時というのは、自分を想像して客観視した時だ。これもD氏の言っている事と良く似ている。だが、やはり前述の方法同様に、心は飛び出して行かない。


そう言えば禅にも、呼吸に合わせて数を数えたり、公案を唸ったりする修行法がある。あれは吐く息に合わせて「ひとーつ、ふたーつ」と数えたり、「無ーっ」と唸ったりする訳だが、その時に心を身体の中から外の方向に飛ばしている。あれがD氏の言うトレーニングに近いのではないか?確かにあれをやると心が全然内向きにならなくなって、妄想しなくなる。そうだ、彼がやっているのは恐らくそれに近いものと思われる。


「心を中から外の方向に向ける習慣をつけ、自分の方に向けた時は直ぐ気づくようにする。そして自分を想像したら『俺』と執着しない。自分を思い出しても『俺』にせず『自然のもの』として受け入れ、思い出した事だけを確認する。それが不安障害の瞑想のポイントかな」


しかし、瞑想センターでは、座る瞑想で心を飛ばすトレーニングはできない。だから、それはスキマ時間にやるしかない。座る瞑想は普通のマインドフルネス瞑想をやり、日常生活の瞑想で、自意識と自分を想像している事に気づく。S瞑想センターではD氏は、大体そんな感じで修行していたようだった。





誹謗中傷からの避難場所


そういう事をやっているうちにD氏は、主観の時、つまり心が外に向かっている時は、何を言われても心が傷つかないという事に気づいた。何か言われて傷つくのは、客観の時、つまり心を自分に向けて、自分を想像している時だけだと判ってきたのだ。


「うわ!自分を想像するって、こんなに心にダメージを与えるものなんだ!」


それによって自己イメージさえしなければ、他人に非難されても何ともないという事が体験的に理解されたのであった。また、自分を想像さえしなければ、他人と比べて滅入ったりする事もないし、他人の目も何も気にならない、最強メンタルでいられる事も判った。


では、自分を想像せずに、常に主観的に心を外に向けているにはどうしたらいいかと言うと、それには気づいていればいい事が判った。気づいている時は必ず今の瞬間にいる。今の瞬間にいる時は主観で、決して自分を想像する事がない。また、慈悲を送っている時も主観になっている事が判った。


一方で、気づいていない時は、心を自分に向けて、自分を想像し、客観になり、更に傷つく状態に陥る。そして不快でクヨクヨ考え、重い気分になる。その時の思考は「他人によく見られたい」「嫌われたくない」「ナメられたくない」といった承認欲求や「大切にされたい」「構って欲しい」などといった愛情欲求、つまりエゴでいっぱいだ。なぜならエゴは、自分があるから発生してくるものなのだから。



しかし今の瞬間にいる時は、それがない。それはもちろん自分がないからだ。気づいている時は自分を想像していないからエゴが出ない。この時はエゴではなくて慈悲がある。四無量心だ。逆に言えば慈悲がある時は今の瞬間にいる時だ。だから今に戻りたい時は、慈悲を送ればいい。今の次の瞬間に自分を想像し「俺は○○だ」と考えるのだ。そして苦しむ。


つまり主観で見る事=気づいている事=今の瞬間にいる事=慈悲がある事は、心の安全地帯にいる事になる。人間はちゃんと攻撃からの避難場所を持って生まれてきているのだ。だからこれを最大限に活用しない手はない。


「しかし、また人間は、自分で創り上げた自己イメージを自分だと思っている。そしてそれに『俺』としがみつく。そうやって客観を作って『俺が何かをやっている』と考えて苦しむのだ。だが、たとえ自分を想像しても、それを『自然のもの』として受け入れれば、しがみつかず、もう苦しみの悪循環に陥る事はない」


D氏がそんな事を言うようになったのは、彼が瞑想センターに来てから2か月ほど経った頃だろうか?D氏は気づきが定着し、常に心は外に向かうように習慣づけられ、もはや、自分を想像して苦しむ状態からは解放されたように見えた。わざわざミャンマーまで来た甲斐があって嬉しかったのか、ずいぶん明るくなり、よく話すようになっていた。


「だから、俺は今まで幻みたいなものにしがみついていたんだ。しかし客観に気づくと、もうそんなものには囚われなくなる。そして二度と自分を想像したくなくなる。妄想が自分だなんて、絶対思いたくないからね」


D氏は幻を見抜いた事を、上機嫌で話し続けていた。苦しみを一つ乗り越えた事で自信がついたのか、顔つきも変わり、力強さまで感じられた。もう、それまでの繊細そうなD氏とは、全然雰囲気が違っていた。


新たなる問題に直面したD氏




だが、そんな風に上機嫌でいたD氏であったが、それも束の間、また新たな問題に直面する事になる。


それはその翌日の昼食時の事だった。D氏は他のアメリカ人修行者と同じテーブルで並んで食事をしていたのだ。そして食後にお茶を飲みながら、例のごとく上機嫌でその体験をそのアメリカ人にも伝えていた。


「客観的に自分を見なければ、何も問題は起こらないよ。いつも主観的でいると凄く楽になるよ。やってごらんよ。自分だと思っていたものが、実は幻だと判ってくるんだ」


「えっ!?」


しかしその人は、D氏の話を聞いて驚いた顔をしていた。D氏の言う事がよく理解できなかったのかもしれない。そして直ぐD氏に素朴な疑問をぶつけた。


「ハア、幻だって?変な事言うんだなDは?キミのこの身体が幻だって言うのか?全然幻じゃないじゃないか?何言ってるんだよ?」


そう言ってD氏の肩をポンポン叩いた。私はそのやり取りを、彼らの向いの席で食事をしながら聞いていた。


「いや、だからこの身体は『俺』じゃないんだよ。自然のものなんだって・・・」


「キミじゃないって・・・それじゃあキミは一体どこにいるんだ?」


その人は、D氏の答えには全く納得がいかない。


「いや、自分じゃないんだ。だから自然のものなんだって・・・・」


その人のツッコミにだんだんシドロモドロになるD氏。


「あれ?そう言えばそうだな・・・心でもない、身体でもない、俺は一体どこへ行ってしまったんだ?」


そして何とした事か!段々とD氏は自分の言っている事に自信が持てなくなってきたではないか!


自分は一体どこへ行ってしまったのか?D氏の心に新たなる問題が浮かび上がった!


そのように、一つの問題が解決すれば、次の問題が発生してくる。それがマインドフルネス瞑想というものだ。


「ウーム、すると少なくともこの身体は自分ではないな、自然のものだから・・・自己イメージってのも妄想だし・・・では、自分って一体何だ・・・?」


「ウワー!自分がなくなってしまったぞ!」


実はこの時D氏は、マハー・サティパッターナ・スッタに書いてある通りの体験をしていたのだ。


この心身には「魂」や「自分」などという主体はなく、ただ、誰のものでもない身体と、感覚、心、心の中身があるだけだと気づく


だが、D氏は残念ながら、まだその時、そのように理解するまでには至らなかった。そして他の人に突っ込まれて、ただうろたえるばかりになった。


「ああ、自分はどこへ行った?自分は・・・・・」


彼がその体験をしている事に気づくのは、もう少し先の事になるのであった。



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  最終更新日 2023.12.31

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