
戒(Sila)について
最近、「中森明菜復帰」の記事を目にしたせいか、ウポーサタ(布薩)の日に戒律について話していたとき、彼女の「十戒(1984)」という曲をふと思い出しました。1984年の曲ということは、もう40年以上も前になるのですね。
この曲は、女王様タイプの女性が気弱な彼氏を「愚図」呼ばわりし、もっとしっかりした男になるよう戒律を与えて“調教”するという、まるで主従関係を描いたような、ややSM的な内容でした。
ハッパかけたげる さあカタつけてよ
ヤワな生き方を 変えられないかぎり
限界なんだわ坊や イライラするわ
彼女が彼氏に与えた「戒律」がどのようなものだったのかは定かではありません。しかし、軟弱な生き方を改めさせるために厳しいルールを課し、叱咤激励するという手法は、よく考えてみると瞑想修行にも通じるものがあるように思えます。
瞑想修行者の場合、守るべき戒律は十戒ではなく、
①不殺生
②不偸盗
③不邪淫
④不妄語
⑤不飲酒
の五戒です。これは、仏教において瞑想修行を志す者に必ず課される掟です。つまり、乱暴者やハッタリ屋、呑んだくれ、理性を欠いた者は、生き方を改めない限り瞑想修行に入ることはできません。
そして、戒律を守ることで心が整い、安定した状態で瞑想修行を行うことで、初めて智慧を獲得できるのです。また、戒律は瞑想修行の土台となるだけでなく、性格の改善にもつながります。もしかすると、「十戒」の歌詞にあるように、男性であればみんなに信頼され、モテモテの人になるかもしれません。戒律を守ることには、それほどの恩恵があるのです。
…と、ここまで考えてみると、中森明菜の記事を読んだだけで、すっかり彼女のことばかり考えている自分に気づきました。今、私の頭の中は彼女でいっぱいです。これまでの話は、すべて私の妄想に過ぎません。
おっと、今度は頭の中で「アモーレ・アモーレ」という声が響き渡り始めました。まったく困ったものです。さて、これは一体どうやって仏教と結びつけたらいいものやら・・・・
修行者
心が平静になった事に感謝すると、自分のものになったような気がして貪欲になります。
長老
だからこそどんな体験をしても一歩引いて見る事が必要だ。つまり「私の平静さ」ではなく「自然のもの」と見る。そう見る事で手放せるが、そう見なければ感覚を貪り続ける事になる。
心の平静さを楽しんでいる事に気づかないと、後でその感覚を得られない時に不満で怒りが発生する。誰でも平静な時は瞑想したいものだし、平静でない時は瞑想したくないものだ。だから、たとえ平静な時でもそれに気づき、貪欲さを手放しておく事が必要になってくる。
修行者
瞑想の時に身体に力が入るのは、緊張しているからですか?
長老
瞑想の時はリラックスを心がける。特に外国から来た修行者は、禅定やら何やらのいい体験をしようとして、強い意志で無理をして力んでしまいがちだ。あまり無理をし過ぎると、心が緊張して気づけなくなる。
やる気は大事だが、瞑想の時はゆるい努力でリラックスしながら観察するようにする。力みが入ると心身が緊張してしまうので、そんな時は心と身体との相関関係を観るといい。緊張感がどれだけ身体を締めつけるかがわかると、もう緊張しながら瞑想する気にはならなくなる。

修行者
苦から解放されるとどうなりますか?
長老
物事の見方が「私が見る、聞く、考える」といった自己中心的な見方から、単に「見る、聞く、考える」といった心を中心とした見方に変わる。あくまでも変わるものは自身のものの見方の方で、それによって生き方も変わるわけだ。

修行者
気づく事で怒りや不安、心配などが消えていきます。
長老
洞察は煩悩を克服できるため、心身に起こる事を変える力を持っている。しかしそれを目的に瞑想するとおかしな事になる。瞑想は気づく事そのものが目的であって、嫌な気分が消えるのはあくまでも副産物に過ぎない。
怒りや不安などが心に現れた時、それが消える事を望むと、消えない時には苛立つ事になる。それよりも嫌な気分を「私の気分」と所有してしまわず、ただ気づく事だけを目的とした方が楽になるし、智慧も開発されていく。それによって更に瞑想が進歩し、気づくのが楽しくなる。

修行者
気づきを失うたびに罪悪感をおぼえます。
長老
罪悪感をおぼえたらそれを認識するだけでいい。私はよく「気づきを継続する必要がある」と言うが、気づきを失うと何か問題が発生するという意味ではない。気づきを失うのは誰にでもある事なので、深刻に受け取る必要はない。
修行者はできる限り気づきを継続させようと努力するだけで十分。気づきを失っても何の責任もない。もし自分の努力が足りないように受け取ると、罪悪感や後悔が生じる。しかし、もしそのような不善な心が生じても、それを気づきの対象として使えば、心は善心で埋め尽くされる。

修行者
マインドフルネス瞑想で目的としているのは気づきと智慧なのですか?
長老
修行者が目指すのは気づきと、あとは努力と智慧だ。これらは悟りの7つの要因(ボッジャハンガ)のうちの原因となるものだ。そしてその結果として生じるのが、集中と喜びと平静さと平等心になる。

修行者
気づきを継続させていると感情が出てきても巻き込まれ難くなりました。
長老
日頃少しでも気づきを継続させようとする事で心を煩悩から守り、安定させる事ができる。たとえ恐怖や不安、怒りや悲しみ等に襲われても、気づきが多ければ多いほど感情のパワーは弱まる。
自身の心の状態に気づかず、起こっている出来事の方にばかり目を向けていると、感情が出た時に圧倒され、鬱やメンタル崩壊、依存症などに陥り、ひどく苦しむ事になる。しかし常に心の状態に気づいていれば、感情が出てきても影響を受けず、余裕で落ち着いていられる。
感覚は六つの感覚器官と対象とが接触する事で発生する。例えば今、身体と空気とが接触し、感覚が発生しているが、そこには物理的プロセスとともに「暑い・寒い」という心理的プロセスもあるわけだ。この物理的プロセスと心理的プロセスとを別々に観ていると、瞑想が格段に進歩する。
修行者
瞑想していると「もっと日常生活で気づいていればよかった」という思いでいっぱいになります。
長老
それは過去の事を考えているだけで瞑想になっていない。気づきは今の瞬間だけをケアする。そんな時は不満がある事だけを確認して、思考に陥らないようにした方がいい。

修行者
加齢による記憶力の衰えで、大切なものを忘れて失ってしまうのが恐ろしく思えます。
長老
瞬間的に生じては滅する心には、本質的なものや意味はない。常に気づいていても、記憶力は衰えてしまうが、注意を心に向けていれば、記憶を失う事が問題にならないようになる。
「私は◯◯な育ち」「私は△□の地位」「私は◯✕な家庭を持った」等の概念に囚われた人ほど、人生には意味があり、実体のあるもののように感じられる。しかし心の現実に気づくほど、ますます人生には意味がなく、実体のないものに思えてくる。そして、しがみつく事をやめる。

修行者
瞑想中は怒りや悲しみには気づこうとしますが、喜びはそのままにしておこうとします。
長老
まだ心を理解していないうちは、良い思い出や感覚、感情に執着し、嫌な思い出や感覚、感情は拒絶する。それは、まだ心地良さを貪る事が怒りにつながる事を知らないからだ。
心地良いとか悪いとか感じる事は、ただ心が作り出した貪欲さ(ローバー)と怒り(ドーサ)の投影にすぎない。貪欲さは私たちを心地良さに執着させ、怒りは不快さに執着させる。だから感情が発生したら良し悪しに関係なく、心地良さを貪っている事と、不快さを避けている事を観る。

修行者
瞑想中は心配で不安な事を思い出しても、なぜか心は落ち着いていました。
長老
気づきが継続されていれば、辛い事を思い出しても落ち着いていられる。だから、それは気づきを継続させていた証拠だし、更に思考や感情と、観察する心とを見分ける事ができた証拠でもある。

修行者
私は何かを見ている事に中々気づけず、長い間対象を見た後、初めて自分が「見ているのだ」と気づきます。その時それが興味深く思えます。
長老
それで十分。まずはとにかく見たり聞いたり触れたりしている事に気づく事。実は簡単なようでいて、結構難しい事なのだから。

修行者
「見るのは対象ではなく自分の行いの方」と思っていると気づきが保てます。
長老
通常、私たちの目は、見るもの聞くもの等の対象に向けられ、その事ばかり考えている。だからこそ重要なのは心の方だと自身に言い聞かせ、自身の心身がやっている事に目を向けるしかない。
日常生活で自身がやっている事をメインに見て、見るもの聞くもの等に心を奪われなければ、気づきを保つのが容易になる。気づきを持続させる方法を知る事は一つの智慧だ。或いは「今気づいているか?」と自問するのでもいい。とにかく心の方に目を向け、心を乱されずに過ごす事だ。
修行者
マインドフルネス瞑想とは、経験している事ではなく、自身の心の状態に目を向けるものという理解でいいですか?
長老
その通り。この実践は見えるものや聞こえるもの等の経験を追うのではなく、自分が見ている事、聞いている事、行っている事に気づくのが目的でやっている。
たとえ瞑想に慣れた人でも「深い瞑想ができた」とか「雑念ばかり観ていた」などと言って、経験の良し悪しに囚われがちだ。だが大切なのは経験している事よりも、自分が今やっている事に気づく事だ。心を経験から引き離し、自身の状態の方に向けるものこそが智慧というわけだ。
修行者
瞑想で観察するのは自身の身体ですか?心ですか?もう一度わかりやすくお願いします。
長老
私たちが観察するのは「活動する心の性質」と考えればわかりやすい。例えば怒っているならその性質は怒りや嫌悪感だし、不安があれば心の不安の性質が現れているという事になる。
今の心の性質は何か?もしPCで文字を打っているなら、それは「見る事」「聞く事」「触れる事」「考える事」かもしれない。また興奮しているとかリラックスしているとかの性質もある。「常に心の性質を観る」と思うのも、気負わずに常に気づきを継続する簡単な方法の一つだ。
修行者
瞑想はシャキッと座って動かないようにするので疲れます。
長老
マインドフルネス瞑想はそんな事をする必要はない。やや背筋を曲げてリラックスして座り、ただ観察するだけだからエネルギーを使わない。まるで観客のように心身に起こる事を認識するだけでいい。
集中の瞑想はシャキッとして多くのエネルギーを使わなければならないが、マインドフルネス瞑想では何かを変えたり、コントロールしたりせずに、ただ「知る」事だけを試みる。そして心身に何が起こっているかを「知っている」のなら、それが瞑想をしている事になる。
修行者
私たちの家族や友人、家にあるものは現実ではなく思考の産物なのですか?それはどうすればわかりますか?
長老
その通り。「私」という存在、そして記憶や思考を通して知っているものは、全て私たちの心が創り出した概念であって、実際に存在するものではない。
私たちや外の世界は、私たちが認識している生活の中では現実という事になっているが、心の働きの中には存在しない。もし「私」というものが妄想であって実在ではないと気づく事ができれば、普段、見たり聞いたり体験したりしているものも、同様に実在ではないとわかるようになる。
修行者
煩悩とは何ですか?
長老
私たちが煩悩と呼ぶのは、一般的に言う好き嫌いの事だ。好きは貪欲さで嫌いは怒り。心配や不安も怒りのうちに入る。それから妄想だ。妄想とは対象を自分なりに判断や解釈したり、自分や他人についてどういう奴か想像を巡らせたりする事だ。

修行者
最初に「私」という存在があって、そこから心身が発生してくるという考え方が一般的だと思いますが?
長老
たとえ広く信じられていても、それは誤った見解になる。なぜなら「私」という存在は、知覚と思考が創り出した概念・妄想だからだ。妄想が心身を生み出す事はできない。
それを言うなら、まず誰のものでもない自然としての心と身体とがあり、そこから自他を区別するという心のプロセスによって「私」という概念が発生し、常に「私」を妄想する事で「私」が存在するように錯覚していると言うべきだ。実際にはこの心身上に「私」なる主体は存在しない。
修行者
煩悩を観るとは好き嫌いを観る事ですか?
長老
好き(貪)嫌い(瞋)といった感情だけでなく、「私は」「私の」という思いも観るといい。その感情や、感情を引き起こした「私の」「私に」という思考は、「痴」という煩悩の働きだ。これが貪と瞋の原因になっている。
修行者
瞑想中はリラックスしようとしたのに緊張しました。
長老
リラックスしたいという欲望が動機になっていると、逆に緊張してしまう。「何としてもリラックスしてやろう」と自分を追い込んでしまうからだ。だから常に正しい心構えで瞑想する事が必要になってくる。
正しい心構えというのは、瞑想で何かを得ようとしない事だ。欲望があればそれに従うのではなく、それに気づく事。緊張している時は「上手くやろう」とか「深く入ろう」などと、何かを得ようとしている。そんな時に心構えを確認すると、心が安定し、リラックスする事ができる。
修行者
いくら仏教を学んでも、老いや病、死に対する恐怖はなくなりません。
長老
この心身を「私」と考える執着心や、快感を求めてやまない貪欲さがある限り恐怖はなくならないし、老・病・死を受け入れる事もできない。また、恐ろしくないように振る舞っても不自然にしかならない。
心身を「私」と考え、喜びを追い、不快さを避ける習性に支配されながら、無理に仏教通りに考えようとしても、ストレスにしかならない。自発的な智慧が生まれて心身を「自然のもの」と見るようになるまでは、「私」という思いや貪欲さや怒りがある事を認め、観察するしかない。
修行者
長老は「私」なる主体は存在しないと言いながら、なぜいつも「私は」と言うのですか?
長老
私たちは「私」という言葉がなければコミュニケーションがとれないので、そのための手段として「私」を使う必要がある。しかしその時は「私が話している」ようには感じていない。

修行者
私は荒廃した尼僧院に行った時、支援をしてその尼僧院をもっと助けたいという気持ちでいっぱいになりました。
長老
それはおそらく慈悲によるものだ。しかし、そんな時でも智慧がなければ多くの問題が発生する。善意を実行に移す場合は、智慧がなければ偽善になるのだ。
例えば、既に寄付額を決めていたのに、更に多くの寄付をしなければならないような気持ちに駆られ、自らを苦しめるような結果を招く事がある。たとえ善意からの思いであっても、その気持ちに気づかなければ、偏った思考に陥り、状況に応じた柔軟な対応ができなくなってしまう。
修行者
瞑想は良いものなのに瞑想中に狂気に陥る人がいます。
長老
それは心の中に渦巻く、喜びを追い(貪)不快さを避け(瞋)る渇望による。そしてその衝動に乗せて「自分はどういう奴か?」と妄想する(痴)。これは健全な心の状態ではない。だからこそ心の質に気づく必要がある。
修行者
「私」は煩悩によって形成された妄想なのですか?
長老
知覚の心は私たちに「自己」と「外の世界」とがあるように見せ、「無痴(無明)=moha」は私たちに自己と外の世界が実在しているのは当然の事で、疑いようのない事実であるかのように信じ込ませる。
「私」も「外の世界」も実際には心が創り上げた想像だけの心理現象に過ぎない。それなのに私たちは、何をするにも「私が行う」「私が喜ぶ、苦しむ」「私のもの」と思う。だから苦しくないはずがない。だが、自己と世界とを分けて考える心がなければ、苦しみも発生しなくなる。
修行者
「私」という思いが苦の元凶である事がわかりました。これからはできるだけ「私」と考えないようにします。
長老
いや、考えないようにするのではなく、「私」と考えている事を認識するように。煩悩は、正しい見解で認識する事で、心から取り除かれてしまう。
煩悩が心によって知られている時、それは既に心とは別のものになっている。なぜなら、対象として認識されたものは心そのものではなく、心によって知られるものになるからだ。だから、たとえどんな悪い習慣であっても、認識できれば徐々に心から取り除かれる事になる。
修行者
日常生活で気づきを維持するために時々「気づいているか?」「何を感じているか?」と自問するのですが、そのせいで考えてしまいます。
長老
瞑想中の自問は答えを必要としない。答えを探すと考えてしまう。気づきへの興味を引き出すのが目的でやるのが自問だ。

修行者
瞑想中は雑念・思考を観察し、その元となる欲望や怒りの感情を追っていましたが、感情が激しくなり、観察できなくなりました。
長老
感情が激しくなったのは、その感情を「悪いもの」と判断したからだ。判断をやめてただ気づくだけにすると、観察が継続し、落ち着く。
瞑想中でも日常生活の中でも「今、心身に起こっている事」に注意を向けると、思考や感情に気づきやすくなり、その結果心は落ち着く。つまり「今」を意識し続ける事で気づきが継続され、判断や解釈が止まり、思考や感情が減少していくわけだ。その結果、心も落ち着いていく。
修行者
瞑想中に蚊に刺された時、落ち着いていた心に怒りが戻ってしまいました。
長老
一度発生して消えた怒りが戻ってくる事はない。その怒りは新しいものだ。蚊に対して「ウザい」とか「有害」などという怒りを呼ぶような思い込みがあると、蚊に刺されるたびに何度でも怒る。
心は常に生滅している。過去に発生した心が戻る事はない。だが「蚊は有害」という思い込みは、手放さないかぎりは蚊に注意を向ける度、繰り返し甦っては怒りを呼び起こす。機械的な認識パターンを繰り返すのだ。それが嫌なら今度蚊に刺されたら「OK」と受け入れるしかない。
修行者
お腹の動きを観るのは、身体の観察ではないのですか?
長老
多くの場合、私たちは腹部の動きを心とを結びつける事ができない。しかしその動きを観る事は触覚、つまり硬さや柔らかさ、動き、温かさなどの感覚を認識する事だ。だから触覚を観る事は心理現象を観る事になる。
修行者
夜寝る前に正しいと思って考えていた事が、朝目覚めると危険な事を考えていたように思えたりして、自分の思考に自信が持てなくなります。
長老
貪欲さや怒りは、必ず誤った思考を伴う。だから考えている時は、思考の背後にある欲望や感情にも気づいておいた方がいい。
煩悩のある時とない時とでは、心は違う事を言う。貪欲さや怒りが消えると、心には智慧が現れるからだ。正しい思考とは、この智慧によって考える事だ。だから自信を失くす事はない。考える時はいつでもその智慧によって正しく考えれば、大きな誤りや失敗は防ぐ事ができる。
修行者
心の反応に気づくとはどういう意味ですか?
長老
何かを見たり聞いたり、感じたり味わったりすると、「快・不快」とか「好き嫌い」などの感情が発生する。それに気づくのが反応に気づくという意味だ。それを習慣化する事によって、今度は心身の相関関係が見えてくる。
瞑想中に何らかの対象によって「快・不快」「好き嫌い」などの感情が発生したら、まずそれに気づく。これは瞑想の大事なポイントになる。例えば痛みがあれば、その反応として嫌悪感が発生するが、次にその感情と痛みとの関係を観てみる。それが心身の相関関係を観るという事だ。
修行者
観察するのも考えるのも、みんな「私」がやっていると思っている事に気づきました。
長老
自我の感覚が働いているのに気づいたわけだ。その感覚のために全ての心の働きを「私」がやっていると信じてしまう。自我を超えるには、まず「私」の感覚の発生に気づく事だ。
修行者
いつも「私」なんて存在しないと自分に言い聞かせています。
長老
「私」を感じながら「私がいない」と考えると不自然になる。「私がいない」状態を探すのではなく、心が「私」と言った瞬間に、それを認識する事だ。何度も繰り返し「私」の感覚に気づくだけでいい。
「私」がある時は「私」がある事に気づき、「私」がない時は「私」がない事に気づく。意図的に「私」を失くす事はできない。様々な条件が必要。まずは、ただそのように気づくだけで十分。「私」を失くそうなどというだいそれた事を企むと、気づきを忘れて考えにハマってしまう。
修行者
瞑想中に心に現れる対象に気づいても別に何もありません。
長老
心の質は対象と一致していなければならない。つまり心の中に心配や怒り、貪欲さなどの煩悩があるとすれば、それらがある事を認識していなければならないわけだ。さもなくば煩悩の支配からは逃れられない。
または、瞑想中に現れる雑念や感情に気づいていたとしても、それらを失くそうとしたり変えようとしたり、コントロールしようとすると、気づきが純粋ではなくなる。特に落ち込んでいる時は、感情を変えようとするので、気づきの効果がなくなる。だから対象はありのまま認識する。
修行者
心配や不安があっても、放っておくと消えて喜びが湧きます。
修行者
最初のうちはそれでいい。確かに煩悩が消えると喜びが湧く。しかし、それで終わるのではなく、気づきを継続させて更に探求を深めれば、心配や不安が生じた原因までをも突き止める事ができる。
気づきを継続させ、気づきを勢いづかせると、心配なり不安なりが現れる時により深い理解が生まれる。煩悩は煩悩の役割りを果たし、気づきは自然とそれが発生するプロセスを観るようになるからだ。そして、そこには煩悩を発生させるような思考がある事がわかる。
修行者
瞑想中にいつの間にか雑念や感情を「私の」ものにし、継続させてしまいます。
長老
気づいている対象を「私の」ものと思い始めたら、一旦心を呼吸に戻した方がいい。瞑想の目的は「私のもの」に気づく事ではなく、「私」抜きのありのままの現実に気づく事だ。
例えば、緊張感を「私の緊張感」と思い始めたら、一旦心を呼吸に向けた方がいい。もし嫌悪感がある事に気づいたら、それを観てもいい。「私の」ものにしてしまった緊張感を観ても意味がないからだ。観るものはあくまでも「私の」ものではない、ありのままの現実の方だ。
修行者
なぜ自分の心を自分で自由に制御する事ができないのですか?
長老
「私」には心を制御する事はできない。なぜなら「私」は心によって生み出されたものだからだ。全ての苦も狂気も制御されていない心から生じる。だからこそ心を理解し、智慧で制御するしかないのだ。

一回の托鉢でこんなにおかずが貰えました。
托鉢大好きウ・テジャニヤ長老

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