【修行者列伝〈ミャンマーで出逢った修行者たち〉#62】自分の土俵で戦う修行者

2025年5月23日金曜日

修行者列伝

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C氏 日本人 20代 男性




北陸地方出身のC氏が、ミャンマーにあるマハーシ式ヴィパッサナー瞑想の総本山、M瞑想センターを訪れたのは、2013年7月初めのことだった。

C氏は関西地方の大学でカウンセリングを学んでいる学生で、将来は心理カウンセラーになることを目指している。その学びの過程でマインドフルネス瞑想に出会い、強い関心を抱いて、はるばるミャンマーまでやって来た。当時、日本ではまだマインドフルネス瞑想を学べる場が少なく、国内では得られない本格的な指導を求めての旅だった。





「ミャンマーのM瞑想センターに行けば、きっとマインドフルネス瞑想を徹底的に教えてもらえるに違いない!」


C氏はそう信じ、まるで三蔵法師が孫悟空や猪八戒を従えて天竺へと経典を求めたような心境で旅立った。ミャンマーで瞑想の技法をしっかりと学び、それを日本に持ち帰って人々に伝えたい――そんな熱い思いに突き動かされていたのだ。


「えっ!? ミャンマーの瞑想センターが親切に教えてくれると思ってたって!?
いやぁ、君もずいぶんのんきだねぇ」


しかし、センターに到着してみると、C氏の期待はあっさりと覆された。現地では、誰もが彼の目論見を否定するようなことを口にしたのである。

センターには当時、3人の日本人男性が滞在していた。そのうちの一人、30代前半のK氏は、毎年のようにMセンターを訪れている常連さんだった。彼は、C氏の考えに誤解があることをやんわりと指摘した。


「Cくん、ここは誰かに教えてもらって修行する場所じゃなくて、瞑想できる環境を提供してもらって、自分なりに工夫しながら修行する場所なんだよ」


えっ!自分なりに修行する、だって・・・?

その言葉に、C氏はただ驚き、呆然とするばかりだった。なぜなら彼は、「自分なりに修行する」どころか、そもそも瞑想のやり方自体をまったく知らなかったからだ。


しかも、夏休みを利用しての旅だったものの、あいにくこの時期のミャンマーは雨季の中でも特に雨量の多い季節で、毎日大雨が降り続き、観光にも行けず、洗濯物もまったく乾かない。湿気でベトベトになり、センター内のどこもかしこもカビ臭く、C氏の心はますます重苦しくなるばかりであった。


本を取り寄せるC氏



「瞑想センターって、なんだか変な場所だな。ということは、ここでは自分の好きなように勝手にやってもいいってことなのか?」


そんな疑問を抱くC氏をよそに、K氏はいつも自室で黙々とヨガに取り組んでいた。瞑想ホールに顔を出して皆と一緒に座るのは、せいぜい1日2〜3時間程度。それ以外の時間は、まるで引きこもりのように、独りでアーサナや呼吸法に没頭していた。


「えっ、仏教の瞑想センターでヒンドゥー教のヨガなんかやっていいのか?」


というのも、K氏はもともとヨガの修行に専念するために日本を離れたのだが、本場インドのヨガ・アシュラムは有料だった。そこで、無料で修行に集中できる場所として、ミャンマーの瞑想センターを選んで滞在していたのである。


しかし、実は誤解していたのはK氏をはじめ、当時そこに滞在していた日本人たちの方だった。というのも、M瞑想センターは教え方こそ粗雑ではあったが、決して「自分なりに修行する場所」ではなかったのだ。


この時C氏は、ミャンマーの瞑想センターの事情をまったく知らなかったため、「有名だ」という理由だけで、ほとんど指導らしい指導をしてもらえないM瞑想センターを選んでしまっていた。そして、その場にいた他の日本人たちも、他の瞑想センターについて何も知らなかったため、そのぞんざいな指導を当然のことと受け取り、誤解していたのだった。


「こんなことなら、瞑想の本でも持ってくればよかったな・・・・・」


そう思ったC氏は、M瞑想センター近くのネットカフェに向かい、A○azonで瞑想のやり方が書かれた本を数冊注文したのだった。――まったく、ミャンマーまで来て何をやっているんだか。


マハーシ式のポイント




では、なぜM瞑想センターが初心者にちゃんと教えないのかというと、それは「教える必要がない」と思われているからだ。ミャンマーでは、瞑想センターというのは「瞑想のやり方をすでにわかっている人が行く場所」というのが一般的な認識らしい。つまり、いろんな瞑想法がある中で、わざわざマハーシ式を選んで来たのだから、「当然やり方を知ってるでしょ?」と思われてるわけだ。

しかし、同じマハーシ式でも、PS瞑想センターやCM瞑想センターになるとちょっと違う。ミャンマー人にはラフな対応でも、外国人に対しては「やり方を知らない」という前提で、ちゃんと丁寧に教えてもらえる。C氏も本当はここに行った方が良かったのだが、情報不足でMセンターを選んでしまったのだ。




私が2010年7月にヤンゴン郊外のPS瞑想センターの森林支部に滞在した時は、逆に「クドい!」と思うくらい指導があり、少しうんざりしたぐらいだった。


「クドい」というのは、同じ話を何度も何度も繰り返されるということで、外国人が一人でも新しく来るたびに、全員呼び集められて、座る瞑想・歩く瞑想・日常動作のラベリング方法まで、かなり詳しく説明された。そして最後には、毎回決まって英語の法話の録音を聞かされた。


その法話の内容というのも毎回お決まりで、「身体感覚はすべて生じては滅している」という話だった。何度も聞かされながら、面接指導では必ず「足の痛みはどうやって観察する?」と質問される。まるでクイズみたいな感じで。それで「ああ、ハイハイ」という感じで、自然と痛みが出たら生滅を観察するようになっていた。


ついでに、足の痛みを観察する意味についても触れておこう。正直、「そんなの観て何になる?」と思う人もいると思う。しかし、試しに座布団を敷かずに床に直に座って瞑想してみると、尻とかくるぶしとか、骨の出っ張ったところが痛くなってくる。


そこで、その痛みを目を凝らして細かく観察してみる。すると、その痛みは実はすごく細かい粒々でできていて、さらにそれが瞬間瞬間で生滅していることがわかってくる。その様子を見てるうちに、痛みに引き込まれていくような感覚になる。そうなると、何時間でも座っていられるし、痛みも感じなくなって、ただ「粒々の生滅」があるだけと感じられるようになる。他の身体感覚も雑念も同様に、ただ生滅するだけのものに感じられるようになるのだ。


集中力が高まれば高まるほど、痛みの中の細かい動きがよく見えてきて、それが面白くなって、もっと集中したくなる。それでつい、普段の生活の中でも集中力を磨こうとして、ラベリングが欠かせなくなる。そうしてるうちに心の勢いがついてきて、足の痛みだけではなく、あらゆる心と体のプロセスが観えるようになってくる。


たとえば、歩く瞑想をしていると、歩く動作のプロセスがはっきり見えてくる。足を持ち上げる瞬間に足の重さが変わったり、軸足の硬さが変わったり、足を下ろして床に触れた瞬間にもまた変化がある。その一つ一つの変化が観えてくると、面白くなってどんどん観察にハマっていく。集中力もどんどんついてくるし、足の痛みの生滅もますますクリアに観えるようになる。



ちなみに、「ラベリング」という言葉は日本では通じるが、ミャンマーでは通じないので注意。本場のマハーシ式の瞑想センターでは「ノーティング」と言っている。


そういうわけで、マハーシ式で修行したいという人がいたら、私はPS瞑想センターかCM瞑想センターしか勧めていない。特に、PSのネパールにあるルンビニ支部はすごく評判が良いので、ミャンマーではないが、チャンスがあれば絶対行った方がいいと言っている。



PS瞑想センタールンビニ支部


「聞こえる」と「聞く」の違い


「えっ!マハーシ式の瞑想センターをあちこち回ったことがあるんですか?それなら、詳しいんじゃないですか?ぜひやり方を教えてください。全くの初心者なので、何もわからなくて困ってるんですよ!」


M瞑想センターの外人男性用宿舎


私がM瞑想センターを訪れたのは、ちょうどC氏がそんなふうに血迷っている時だった。彼と初めて会って、自己紹介やら雑談を交わしているうちに、彼の方から「瞑想のやり方を教えてほしい」と頼まれた。気の毒に思った私は、以前PSセンターで教わったマハーシ式の方法について、彼に説明してやった。


「なるほど、それがマハーシ式の基本なんですね。ヒロさんが来てくれて助かりました。他の人にも聞いたんですけど、みんな言うことがバラバラなんですよ。ここって、人それぞれ勝手なことをやってるみたいですね。」


彼が教わった中には、「何か音が聞こえたら『音、音』とラベリングする」というやり方もあったらしい。実はそれ、私も他の瞑想センターで聞いたことがある。けれどその時は、指導者がその方法を訂正していた。というのも、それでは意識が対象(=音)の方に行ってしまうため、「聞こえている」か「聞いている」とラベリングするように言われていた。つまり音が受動的に聞こえているのか、それとも自分で注意を向けて聞いているのかを確認し、心を常に自分の内側に留めるように、と教えられていたのだった。


「これは頭がパニックになった時なんかにいいですよね?」


パニックにいい?

C氏はそんなふうに、時おり「パニック」という言葉を口にしていた。パニック障害か何かの持病があるのだろうか。心理療法を学んでいると言っていたし、どうにもそんなことを想像せずにはいられない。




「よかったら、この本、貸しておきますよ。C氏はこういうのを求めてるんじゃないですか?」


ともあれ、「助かりました」とまで感謝された私は、「大丈夫ですよ。わからないことがあれば、いつでも聞いてください」と励まさずにはいられなかった。そして、心理療法としてのマインドフルネスを求めている彼に、アメリカのその道の第一人者、マーク・エプスタインの「Thoughts without a thinker」の日本語版である、井上ウィマラ氏の『ブッダのサイコセラピー』を貸してやった。


だが、そんな時だった。私とC氏が宿舎の廊下でそんなやり取りをしていると、そこへ例のヨガ行者、K氏が通りかかり、何やら口を挟んできたのだ。


「でも、そんな型にハマったやり方でやるって、つまらないじゃないですか。」


外人男性用宿舎の廊下


人のフンドシで相撲を取る


「Cくんさ、教えてもらうことばっかり考えてないで、もっと自分なりに工夫して修行する努力をしたほうがいいよ。教えてもらおうとばかり思ってるから、誰も教えてくれないって不満になるんだからさ。瞑想修行ってのは、誰にも頼らず一人でやるもんなんだぜ。」


M瞑想センターの男性用宿舎の入口前には、「フロント」と通称されるスペースがある。そんな感じで、廊下で立ち話をしていたC氏と私に、K氏が何か言いたそうな様子を見せたので、私たち3人はそのままフロントに移動し、椅子に座ってアレコレ話し合っていた。



フロント


フロントでは自由にお茶を淹れていい



「俺なんか、ヨガはすべて独学でやってきたんだ。誰にも教わったことはないよ。本を読んだり動画を見たりして、自分なりに工夫しながら続けてきた。それでも、ヨガの効果はしっかり実感できているよ。だから、他人に教えてもらって手っ取り早くマスターしようという考え方には、あまり賛成できないんだ。楽をしようという魂胆が透けて見える気がしてね。」


K氏は、かつて不摂生な生活を続けて激太りし、体調を崩して苦しんだものの、ヨガを始めてから20キロ以上の減量に成功し、健康を取り戻した。今では、毎日を清々しい気分で過ごしているという。ヨガに専念するために、仕事も辞めてしまった。


「それって、飲食店を始めるのに、まずはチェーン店で働いて、手っ取り早く美味しい味の出し方を覚えてから、チェーン店の店長になろうって魂胆みたいじゃないか? 手っ取り早くマハーシ式の方法を覚えて、マハーシの支部長になって、創設者の受け売りの言葉を話して、それで瞑想の先生みたいな顔をしようっていうんだろ? あまり感心しないな。」


「そういうのを“人のフンドシで相撲を取る”って言うんだよ!!」


ちなみに、K氏の前職はカレー屋の経営者だったという。要するに、誰も瞑想のやり方を教えてくれないなら、自分で研究・開発しろということか? チェーン店の店長になりたがるよりも、自分でオリジナルの味を生み出し、チェーン店の創業者になれと。なるほど、このあたりの考え方からは、K氏のビジネス哲学のようなものが感じられる。

考えてみれば、マハーシ式の方法も、創設者マハーシ・セヤドーが自ら研究・開発したものだ。ラベリングや腹部の呼吸観察といった技法も、創設当時は「邪道」とされていた。



スンルン・セヤドー (1878-1952)


また、戦後の荒廃したミャンマー仏教を救ったのは、スンルン・セヤドーという我流修行で悟りを得た在家出身の長老だった。彼は、瞑想にヨガのバストリーカ・プラーナーヤーマという激しい呼吸法を取り入れ、その斬新な手法で多くの人々を悟りへと導いた。足の痛みの生滅する様子を細かく観察すると、容易に禅定に入れることを発見したのも、この長老だ。


そういえば、日本で名高い禅匠たちも、いずれも無師独悟だ。盤珪や白隠もそうだし、また、念仏の世界でも親鸞や妙好人と呼ばれた人々も皆、我流で悟りに達している。


K氏は、我々も彼らのように、既成の道ばかり行くことを考えずに、自分でやり方を開発する努力が必要だと言っているわけだ。


だが、念のため調べてみたが、チェーン店の店長になるというのも、K氏が言うほど楽ではない。こんな光景を見せられた日には、オリジナルの味を開発する方がずっと楽だと思ってしまった。


https://m.youtube.com/watch?v=SeIQcAk2eHs&t=480s&pp=0gcJCYQJAYcqIYzv

(※視聴注意)


しかし、K氏とのこのようなやり取りが起こるのも、ぞんざいな指導が行われているM瞑想センターならではのことだ。きちんとした指導のある他の瞑想センターでは、まず起こり得ない。どうやら、放置された修行者は、その環境に自分を納得させるために、頭の中でさまざまな口実を作り上げざるを得なくなるようだ。


わかりました。その話は頭に入れておきましょう。他人のウ◯コのついたフンドシだけは使いたくないですからね。


そんなことを言ってC氏と私は、とりあえずその場を離れた。そして常識に従って、マハーシ式で修行を続けたのだった。


自分の土俵で戦う


外人男性用瞑想ホールは宿舎の2階にある


そんなふうにして過ごすことひと月ほどだろうか、ある日、瞑想ホールからの帰りに、C氏が私に声をかけてきた。


「ヒロさん、わかりましたよ。心が乱される原因が。やっぱり『見ている』とか『聞いている』ってことが関係してたんです。本当に、そこがポイントだったんですね。」


C氏は満面の笑みを浮かべ、実に嬉しそうな様子だ。何か良いことでもあったのだろうか?


「パニックの原因がわかったんです。あれは何かを見たり聞いたりしているときに、心の注意点が対象に持っていかれることで起こるんです。その瞬間、自分を見失ってしまう。でも、見たり聞いたりしながら『見ている』『聞いている』とラベリングしていれば、注意点を持っていかれずに済む。つまり、自分を見失わずにいられるんですよ。」


――心の注意点を見失うと、心が乱れる!


実は、このC氏の体験には、前回紹介したエピソードと共通するものがある。前回は、「青い鳥を見つけた修行者」ことUさんが、心が身体の外に出なければ、他人の目や非難が気にならなくなることに気づいた話だった。そして今回は、このC氏がやはり「注意点を見失わなければ心は乱れない」と気づいたのだ。

少し試していただければわかるが、心が身体の内側にあるときは、注意点は発生しない。ところが、心が外に出ると、注意点が生じる。つまり、この「注意点」と「心の乱れ」には密接な関係があるのだ。それでも、注意点を見失わないようにしていれば、他人にどう見られようと、何を言われようと、気にならなくなる。これは単純なことだが、意外と気づく人は少ない。なぜなら、多くの人はこうした心の原理に関心を持たないからだ。

しかし、C氏は興味を持ち、注意深く観察した。それは、おそらく彼自身が何らかの心のトラブルを抱えていたからなのだろう。


「これ、すごい発見ですよ!ミャンマーまで来た甲斐がありました。やった!」


端から見れば、なんてことのない発見かもしれない。しかし、苦しんでいる本人にとっては、それが大発見になることもある。


「K氏は“人のフンドシで相撲を取る”なんて言ってましたけど、実はこういうのって、自分のフンドシなんですよね。ぼくの専門分野なんです。何年もずっと、こういう心の観察とか、自己分析ばかりやってきましたから。」


なるほど。やはりC氏は、そういう人だったのだ。

だがしかし——“自分のフンドシ”とは何だ?それを言うなら、“自分の土俵”ではないのか?

私にも正確なところは分からないが、どうやらC氏の頭の中では、「人のフンドシで相撲を取る」や「自分の土俵で戦う」、「同じ土俵に上がる」など、相撲にまつわる諺がごちゃ混ぜになっているようだった。


そんなだから、C氏はK氏の発言もきちんと理解していなかった。確かに、ややこしいと言えばややこしい。だが、それぞれ意味が全く違う以上、誤解してしまうとトラブルのもとになる。


……その時だった。そんな話をしていた私たちの横を、ちょうどK氏が通りかかったのだ。「こいつら、また何を話してるんだ?」と言わんばかりの顔をして。




我流修行のデメリット


ついでにK氏についても触れておきたい。というのも、彼の瞑想は一言で言えば「すごい」からだ。もっとも、「すごい」といっても、それは完全にポイントを外しているという意味での「すごさ」なのだが。


何しろ彼はいつも、「カルマが身体に返ってきているのを観察する」とか、「感情と尾てい骨のチャクラとの関係」といったことばかり観察している。本人はそれを正しい瞑想だと信じて疑わないため、まともに話が通じない。たぶん、C氏が気づいた内容を話しても、「そんなどうでもいいことに気づいて、何になる?」と、相手にもしないだろう。


私は先生ではないので、彼に対して何かを言う立場にはないし、たとえ何か言ったとしても、自分をいっぱしのヨガ行者だと思い込んでいる彼には届かないだろう。おそらく、私のことを内心では見下している。


だが実際、マインドフルネス瞑想で気づこうとしているのは、彼が追い求めているような大げさなものではない。むしろ、C氏がやっているような観察や、歩いていて足の重さや硬さが変わったことに気づくような、そんな些細なことに過ぎないのだ。


だから、誰にも頼らず我流で修行するのも悪くはないが、気をつけなければ、勘違いしたまま自己満足で終わってしまうことになる。さらに言えば、「独り相撲」に陥ってしまうかもしれない。それならいっそのこと、人のフンドシを使った方がまだマシだ。





一方のC氏は、その後すっかりM瞑想センターに馴染んでしまった。Mセンターは指導はぞんざいだが、ミャンマーの瞑想センターの中では寄付が最も多く、豪華な食事で有名だ。C氏はその毎日の「ちゃんこ」にすっかり魅了されてしまったのだ。


そして彼は、当初は黒星が続いていたが、次第に白星を重ねるようになり、最後には金星まで挙げるなど、見事な成績で「ミャンマー場所」を終え、帰国したのだった。




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  最終更新日 2023.12.31

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