無意識のうちに
地震を想定する人々
3月28日にミャンマー中部を震源とするマグニチュード7.7の大地震が発生し、多くの建物が倒壊、約4,000人が死亡、5,000人以上が負傷するという大惨事となりました。
被害に遭われた方々の一日も早い回復と、被災地の早期復興を心よりお祈り申し上げます。
ミャンマーで発生した大地震は、近年まれに見る規模だったと言われています。つまり、ミャンマーは歴史的に見ても、地震とはほとんど無縁の国だったのです。そのため、多くの建物が地震を想定せずに建てられていました。
驚くべきことに、ビルの多くは鉄筋も使わず、ただレンガを積み上げただけという簡素な造りでした。さらに、日本の建物と比べると、柱も非常に細く見えます。加えて、非常口や避難用具といった備えも、ほとんどのビルにはまったく設置されていません。
「地震が来たら、ミャンマーは一発で壊滅してしまうだろう」
私はいつも、ミャンマーの市街地を歩くたびに、そう危惧せずにはいられませんでした。しかし、それをミャンマーの人たちに話しても、ただ笑われるだけでした。「この人、何を訳のわからないことを言っているんだ?」といった顔をされるのです。というのも、彼らは生まれてから一度も地震を経験したことがなかったからです。
同じことは、マレーシアの人々にも当てはまります。以前マレーシアを訪れたとき、ビルの柱のあまりの細さに恐怖を覚えました。しかし、やはり地震の話は通じませんでした。
一方の私はというと、地震が頻発する日本で育っているため、建物を見ると無意識に地震への備えを考えるように習慣づけられています。おそらく、こんな想定を常にしている民族は、世界でも稀でしょう。つまり、ふつうの人間は、普段から地震のことを意識して暮らすようにはできていないのです。そのため、私がどれだけミャンマーやマレーシアの人々に地震の話をしても、まったく通じなかったわけです。
そのようなことがあって、私は自身が「地震を常に想定できる」、世界でも稀有な民族の一人なのだという自覚を持つようになれました。
修行者
不安や心配をする心理について理解を深めたいのですが?
長老
不安について学びたければ気づきを継続させる事だ。例えば何かの出来事があり、それについて考えて不安になったとしたら、その一連のプロセスを観る。一つの感情だけでなく、心に起こる事全てを観るわけだ。
何らかの感情について理解したければ、その感情だけでなく、その感情が発生する心の流れを観る。一つの対象だけを観るのではなく、広い視野を持つと言ってもいい。一つの対象だけを観ていると、視野も理解も狭くなる。それによって自身の不安を呼ぶような思考パターンも見えてくる。
修行者
何かを食べている時に味が消えるのを認識しています。
長老
その時注意すべきなのは「味が消えるのをもっと観よう」とする事だ。これは貪欲さだ。そして味が消えるのを欲しながら観るのは誤った見解だ。これは実は多くの人々が陥っている罠なので気をつけるように。
修行者
心配や不安、怒り、嫌悪感等の嫌な感情は心から取り除けるのですか?
長老
その感情の意味を本当に理解すれば取り除かれる。だが、それらを理解するにはそれらの特徴を知らなければならない。例えば不安には不快感と恐れという特徴がある。そしてその発生の原因まで観ていく。
修行者
対象を見る時は対象にポイントを置くのですか?
長老
いや、見る事にポイントを置く。一度目を閉じると、それが「見ていない」状態だ。目を開ければそれが「見える」状態だ。そして対象に注意を向ければそれが「見る」状態だ。対象ではなく、その状態に気づいていればいい。
修行者
概念抜きの現実とは、何かを見たり聞いたりする「私」がない状態ですか?
長老
そう、対象を認識する時に発生する「私」は概念であり、実在しない。だから、何かを見たり聞いたりする時は、対象の方ではなく、「私」を創出する認識プロセスの方に目を向ければいい。
修行者
「私」でなければ誰が対象を認識するのですか?
長老
見たり聞いたりするものの中に「私」は実在しないが、なぜか「私が認識している」ように思える。それは対象は自分の外側にあって瞬時に生滅するが、認識は内側にあるので「私が認識している」ように思えてしまうのだ。
修行者
「私」という感覚はどうやって発生するのですか?
長老
まず目を閉じる。それから目を開いて対象に注意を向けていない状態にする。それが「見える」だ。次に何かの対象にジッと注意を向ける。それが「見る」だ。その時に胸の奥に何か感じないか?それが苦しみの元だ。
修行者
私はいつも物事を深刻に考えて不安になります。このパターンが心に刻まれているような気がします。
長老
私たちの悪い精神状態は条件付けられたものだ。だが新しい条件を加えればパターンは変わる。例えば常に気づいていようとする事で、悪い状態に直ぐ気づけるようになる。
頻繁に繰り返す事で心は条件付けられる。(asevana paccayo)という事は、どんな精神状態であれ、気づきを繰り返せば条件を変える事ができるわけだ。だから、直ぐ深刻になったり不安になったりしたとしても、気づきを繰り返せばそのパターンはやがて変わっていくのだ。
修行者
瞑想中は対象を探したり追いかけたりして疲れます。
長老
対象は探したり追いかけたりせず、向こうからやってくるのに任せるようにする。自然にやってくるのを待って、気づいているかどうかを確かめると言ってもいい。追いかけると緊張したり疲れたりする。
修行者
瞑想中によく「怒りはなぜ発生したか?」「雑念はどこから来たか?」と自問するのですが、答えが出てきません。
長老
自問する場合は答えを出そうとしない。心を探求に向かわせるためにするのが自問だ。心が学び、智慧が出てくれば、自然と答えが出てくる。
修行者
気づきと慈悲とは別々に修行するものなのですか?
長老
気づきの中に四無量心を取り入れる事ができる。そのためには、自身を観察する時に自らに慈しみを送り、苦しみに対して憐れみを持ち、修行できる事を喜び、瞑想中の気分の浮き沈みにも平静を保つ事だ。
修行者
瞑想はしっかり集中できて深いところまで入り、充実できました。
長老
集中できているかどうかは、マインドフルネス瞑想では重視されない。それよりも、雑念ばかりでいいから、それに気づけている方が重要だ。そして、その気づきを継続するのが最大のポイントになる。
瞑想者は何が見えたとか、それが良いとか悪いとか、鮮明に見えたかどうかといった事は気にする必要はない。ただ、対象が何であれ、それに気づき、気づきを一貫させているかどうかだけを気にすればいい。気づけば気づくほど心の質は良好なものとなり、充実感を得る事ができる。
修行者
対象を見る心には気づけますが、見るという行為には気づけません。
長老
私はよく瞑想中に「今何を知っている?」と自問する。知る心と気づきとは異なるからだ。音を知る事を「聞く」と言う。音は対象で知るのは心だ。つまり音と心とが合わさって「聞く」という行為になる。
Vinnana(意識)とは理解する事ではなく、単に対象を知覚しているだけの状態を言う。しかし、一方の気づきには智慧がある。最初のうちは難しいが、対象をただ知覚するだけだったり、理解したり、それに気づいたりと、様々な状態がある事だけを頭に入れておくといい。
修行者
日常生活の気づきの肝心なところはどのあたりですか?
長老
私たちの日常生活は、快感を求めてやまない貪欲さと、不快さを避けたりなくしたりしようとする怒り、嫌悪感、自身について妄想する無痴の煩悩に支配されている。それらに気づいて受け入れるのが修行者の務めだ。
修行者
私は常に心配や不安に悩まされているのですが、気づきの瞑想をするとどうなりますか?
長老
気づきは日常生活で私たちを悩まさせる煩悩の本質を取り除く。それは心に浮かぶものについて考えてしまう事から、ただ観るだけで受け流すように態度を改める事で起こる。
瞑想をしていない人は心に甦る様々な記憶に囚われ、考えては暗くなるが、瞑想を始めるとそれに引っかからず、ただ観るだけになる。体験者から觀察者に移行するのだ。また瞑想しない人は心配や不安などの煩悩をなくそうとするが、瞑想するとそれらもただ観るだけになる。
修行者
どんなに頑張っても、気づきを維持し続ける事ができません。
長老
そう、誰にもできない。それは「モーハ(無明)」のせいだからだ。モーハは知ることを望まない。だから気づきを忘れさせようというする。そして、そんなモーハと私たちは長い間共に生きてきたのだ。
修行者
瞑想中の心の状態が何かおかしいと気づきましたが、何が問題なのかわかりません。
長老
もし、わからないなら、そのままただ観察する事だ。既におかしい事に気づいているのならそれで十分。感覚、思考、感情と、連続して心に発生してくるプロセスに興味を持つといい。
瞑想中に問題が起こった時は、決してそれを解決しようとせず、ただ心に次々と起こってくるものを観る事に専念する。期待を抱いたり、その問題の理由を知りたがったりしがちだが、瞑想は今、心に起こっている事をただ知るだけの作業だ。いくつもの気づきが繋がれば理解が発生する。
修行者
何かを見る時に対象ではなく「見るという行為」の方に注意を向けるようにしていたらメンタルが強くなりました。
長老
そう、いつも言っているが、実行する人は少ない。心が対象に囚われない時は、苦しみは発生しない。だから誰に誘惑なり非難なりされても平然としていられる。
目の前の相手がただ「見えている」だけの時は、その人に非難されても平然としていられる。傷つくものがないからだ。だが、その人に注意を向けて「見る」状態に入ったとたん心は傷つく。その時「見る行為」に注意を向ければ、相手の言う事を理解しつつも、心は傷つかずにいられる。
修行者
日常生活では出来事に圧倒されて、どうしても気づきを忘れてしまいます。
長老
日常生活では、気づきは失っては取り戻し、また失っては取り戻すものだ。それの繰り返しになる。心が圧倒された時は、呼吸を5回から10回も観察すれば、また気づきを取り戻す事ができる。
修行者
確かに思考はアレコレ変わります。どうしてですか?
長老
心に怒りや嫌悪感がある時、心は誰かや何かについて、どれだけ悪質で有害か、不快極まるかという物語を創り、貪欲さがある時は、どれだけ美しく心地よく有益かという物語を創る。それを信じて実行すると失敗する。
また、心は高慢な時は、自分がどれだけ賢く偉い奴か、落ち込んだ時は、自分がどれだけ愚かな恥晒しな奴かという物語を創る。だが、それらの思考は心によって創作されたものであり、現実のものではなく、信じるに値しない。だから私たちは、思考に囚われずに観察すべきなのだ。
修行者
感情に気づいても、それに圧倒されてどうしても気づきを失います。
長老
最初のうちは気づきに智慧が伴わず、純粋なものではないため、煩悩を平静に観察することができない。そのため、気づきを強めることで理解を深めていく必要がある。強い煩悩は強い気づきで観察するのだ。
この気づきの実践の到達点はどこか? それは 行捨智(サンカール・ウペッカー・ニャーナ) の実現、つまり心に起こるすべての現象に対して平静でいられる事だ。すべての サンカーラ(心の形成作用) を中立的な観察者として見守ることができるようになるのが目的だ。
修行者
世間的な知恵と瞑想の智慧とはどう違いますか?
長老
世間的な知恵はさておき、瞑想の智慧とは、心理現象と物理現象のプロセスを理解する事だ。これをヴィパッサナーの智慧と言う。この場合、対象となるのは名色(nama-心,rupa-身体)だけになる。
修行者
瞑想すると心が浄化されると聞きましたが、心を観察するたび嫌な記憶や感情が発生して混乱します。
長老
瞑想で浄化されるのは、思い出したり、考えたり、怒ったりする心ではなく、気づく心の方だ。気づきは善心であり、気づき続ける事で心が善心で満たされる。
私たちが正しい態度で気づいていれば、その心は浄化される。記憶や感情は直ぐに浄化される事はないが、気づきと正しい見解によって理解が深まれば、記憶や感情を「私の事」「私のもの」と見なす事もなくなり、嫌な記憶で嫌な思いをする悪循環から抜け出していくようになる。
修行者
以前、集中して心地良くなる瞑想は苦(ドゥッカ)だと言われましたが、理解できませんでした。
長老
私たちの心にはモーハ(無知)の煩悩が働いているので、集中して心が静まるのを楽(スッカ)と思って楽しみ、執着する。それがなぜ苦なのかは体験的に理解するしかない。
集中して心地良くなるのがなぜ苦なのか?それは言葉で説明するのは不可能だ。もし心が「何が起きているのか」と考え始めると、「概念」に注意を向けてしまい、貪欲さ(ローバ)が生じる。現実には心地良さもただ生じては滅していくだけのものだ。その生滅を観察するしかない。
修行者
悩み事は深い思索によって乗り越えるものではないでしょうか?
長老
私たちは思索によって煩悩を乗り越えたりはしない。ただ何が起こっても、一貫した気づきを維持しようと務めるだけだ。煩悩をなくそうとか、心を落ち着けようなどと考える事もなく、ただ気づき続ける。
修行者
リトリート(瞑想合宿)に出た時は心が静まり、穏やかでいられましたが、自宅に戻った途端に心が乱れました。
長老
リトリートでの経験と家庭での経験はまったく異なる。リトリートでは、心は穏やかで余計な思考がなくなるが、家庭では日々の活動によって常に心が乱される。
家庭での厳しい状況は、どのような経験であっても気づきを持つことの重要性を繰り返し教えてくれる。思い通りにいった事であれ、いかなかった事であれ、気づきがなければ、上手くいった時には貪(lobha)が生じ、しくじった時には瞋(dosa)が生じてしまう。
修行者
なぜ家庭での日常生活は厳しい環境なのですか?安心できる環境ではないのですか?
長老
私たちは自宅にいる時、周囲にあるものを全て「私の」と思って扱っている。自宅は心を乱す原因をつくる場所でもあるわけだ。しかし気づきがあれば、そんな状態から解放される。
修行者
仏教や修行に対する信は、智慧と関係がありますか?
長老
もちろんだ。本当のSaddha(信)は智慧によって高まる。仏教や修行について理解が深まるほどSaddha も高まるし、それによってやる気(精進)も出てくる。智慧がなければ疑念が出たり、盲信に陥ったりする。
修行者
瞑想中は、聞こえるものや感じるものに集中していると落ち着きますが、それらから離れると貪欲さや嫌悪感が出てきます。
長老
聞いたり感じたりしている事に気づかず、対象に没頭しているだけでは見解として不十分だ。対象と観る心と、両方を観なければ全体像が見えてこない。
瞑想中は、見たり聞いたりしている対象そのものに注意を向けすぎると、好き嫌いの感情が湧いてくる。しかし、観察する心にもっと注意を向けるようになると、心の働きがより理解でき、修行の熟練度も高まってくる。つまり智慧は、対象に巻き込まれずにいる時に発生するわけだ。
修行者
スマホを見ると直ぐ引き込まれてしまいます。
長老
体験している事に没頭しそうな時は「今、何をしている?」と自問してみるといい。それによって体験と、それを観察する心との両方が見えてきて、より完全な全体像が見えてくる。観察者が不在の時に対象に引き込まれるわけだ。
修行者
日々ストレスや緊張で疲れます。どうしたらリラックスできますか?
長老
心に楽を求めてやまない貪欲さ(lobha)や、苦しみを避けたり失くしたりしたい怒り(dosa)がなければリラックスして暮らせる。心に煩悩がある限り、本当にリラックスする事はできない。
全てのストレスや緊張は煩悩から発生する。煩悩がなければストレスもなく、心はリラックスしている。煩悩は気づきがあり、智慧がある時、減少したりなくなったりする。だからストレスや緊張のない生活を送るには、常に気づいていて、その気づきを継続させながら生活するしかない。
修行者
貪欲さ(lobha)はどうやって観るのですか?
長老
実は多くの修行者が貪欲さを認識できずにいる。なぜならこれは、何かを見たり聞いたり感じたりした直後に発生するからだ。美しい、心地よいと感じた直後に「もっと欲しい」と望んでいる。だから気づきの継続が必要になる。
気づきがない時、無明(moha)は常に存在する。智慧がなければ既に無明がある。だから気づきがなければ、ほとんどの時間、自分に貪欲さがあることに気づけない。しかし、気づきがあれば、どんな心が現れてもそれを認識し、学べる。だからこそ、気づきの継続がとても大切になる。
修行者
貪欲さ(lobha)と怒り(dosa)の観察に熟練する方法はありますか?
長老
瞑想中に煩悩に悩まされたくなければ、日常生活の中でそれらに気づく習慣を身につける事だ。日常生活の中で煩悩は瞑想中よりもはっきり現れ、わかりやすい。そこで気づきを継続するのが助けとなる。
修行者
なぜ「私」という思いが苦しみの原因になるのですか?
長老
「私」という思いは思考や感情、そして見る、聞く、などの体験を強烈にする。貪欲さ(ローバ)や怒り(ドーサ)の体験が圧倒的に感じられる時は、自己の感覚も堅固で、実在するもののように感じられている。
「私」という感覚が変化している時は、思考や感情も変化しており、思考や感情が変化すれば、体験もまた変わる。そして、変化するものは私たちを圧倒することはない。つまり、私たちは「自己」の堅固で実在するように思える性質と、煩悩の対象を一緒に観察し続けるだけでいい。
修行者
長老は鬱の苦しみをどうやって乗り越えたのですか?
長老
私の鬱は「それが自分に起こっている」と信じていたことで、より激しくなったと言うか、それによって苦しみが増した。つまり「私の鬱」という思いが、更に多くの「苦(dukkha)」を発生させたわけだ。
その時に、鬱の苦しみが観察の「対象」であると理解していたら、それほど問題にはならなかった。しかしその時、私は「これは鬱だ」とわかっていたものの「対象」という意味を理解していなかった。しかもそれを「私の鬱」と信じていたから苦しむしかなかった。
修行者
気づきは頻繁に失われ、いつの間にか考えている事が多いです。
長老
ある修行者は継続的な気づきを得ようとしていたが、何度も失敗して落ち込んでしまった。しかし、それは実は、彼の心が鋭敏だったからこそ、気づきが繰り返し失われていくのを見ることができたのだ。
修行者
どうすればアディターナ(強い決意)で気づきを継続できますか?
長老
私の場合は苦しみから解放された経験が気づきの継続の動機になった。常にうつ状態で苦しんでいたが、気づきの継続によって少しずつ苦しみから解放されたのだ。その理解が私を修行に駆り立てた。
時には気づきを継続させていても、苦しみが戻ってきた事もある。しかし、そんな時でも私には「これが唯一の解放への道だ」という確信があった。それは、全てそれまでの経験から来る強い信だった。その理解と信念とが、私を絶え間ない実践へと突き動かしたわけだ。
修行者
現実と概念的生活の違いは何ですか?
長老
私たちには二つの生活がある。一つは日頃体験している「自分の生活」。もう一つは、心の中で起きている「心のプロセス」だ。そして実は、私たちが現実だと思っている日常の出来事は、心の状態によって作られたイメージにすぎない。
イメージとは、例えば怒っている時は、何もかもが腹立たしく見えて、頭の中には怒りのストーリーができあがる。欲にとらわれている時は、欲しいものばかりが目について、欲望のストーリーになる。混乱している時は、物事がよくわからなくなって、迷いのストーリーになっていく。
だからこそ、物語そのものに振り回されるのではなく、それを生み出している「心のプロセス」に気づくことが大切だ。人生の物語に執着すればするほど、私たちは苦しみを抱える事になる。どんな物語も、最後には必ず終わりが来るからだ。そしてその終わりは、しばしば悲しいものだ。
修行者
せっかく瞑想で気持ちよくなっても、足が痛くなると終わってしまいます。
長老
時々、私は痛みを感じることがあるが、それを消したいとは思わない。なぜなら、この痛みは私にとって「対象」だからだ。それに、気分が良くて幸せなときは、瞑想を忘れてしまう。
身体が痛み、心が苦しむ時、心は常にそれを「瞑想の対象」として思い出させてくれる。だから、私はその感覚が消えてほしくないとすら思う。それは瞑想の対象として使えるからだ。痛みや苦しみこそが、心を気づきに向かわせ、成長させる原動力だと心得て、観察してみるといい。
修行者
修行の正しい心構えとはどういうものですか?
長老
私たちの修行は、光を見るとか深い瞑想状態に入るとか、何らかの体験を目指すのではなく、今の瞬間に自らの心に何が起こっているのかを知るのが目的だ。そして、その気づきを継続させるのが最も大切だと心得る事だ。
修行者
もし何らかの体験をしたら、直ぐに排除するのですか?
長老
体験したらしたでいいが、体験に対して何かをしようとするのではなく、それについて「知る」事だ。例えば病気になった時は、痛みや不快感を排除するのではなく、それに抵抗する心の動きを観察しようとするように。
修行者
気づきを継続させようとする強い意志は、智慧から来ているのですか?
長老
そう、その気持ちをパーリ語でsaṃvega(サンヴェーガ)と言う。これは直訳すれば霊的な切迫感という意味になるが、要するに、あなたを修行へと駆り立てるあらゆる智慧の事だ。
修行者
直ぐに欲望に負けてしまうので、貪欲さについて学びたいのですが?
長老
貪欲さが発生してくるのはわかるだろうか?では、その貪欲さはどういう時に発生してくるか?例えば、食べ物を見て「美味しそう」と思った時か?「不味そう」と思った時か?そこに注目してみるといい。
或いは美しいものを見た時と、醜いものを見た時と、どちらで貪欲さが発生するか?そのように心地よさと不快さの感覚と渇望感との関係を観る。また、渇望感には強い時もあれば弱い時もあるし、貪欲さは心を消耗させるので、貪欲さが去った後の心の沈み方なども観ておくといい。
修行者
気づきを継続させるための動機を高めるにはどうしたらいいでしょう?
長老
私は毎日、修行者たちがもっと苦しむように願うべきなのかもしれない。それが動機になるのだから。実際、苦しみはすでにそこにあるのだが、修行者たちは自分が苦しんでいることに気づいていない。
修行者
私はもう十分苦しみましたが?
長老
いや、まだ十分ではない。なぜなら、その苦しみがまだあなたを一貫した実践へと導いていないからだ。と、言うよりもあなたはまだ「苦」とは何かを理解していない。本当の苦とは、あなたが喜びと思っている、貪欲さや怒りの事なのだから。
修行者
瞑想中に自分の肉体の形が消える体験をし、恐怖を感じました。
長老
常に気づきを継続させていると、肉体の形という概念が消えていく。そして私たちは、肉体の形を失うとき、無明によって恐怖を感じるのだ。覚醒は無明にとっては恐ろしいものなのだから。
修行者
概念的世界から現実へとはどういう意味ですか?
長老
最初、私たちは「人」としての自分の側に立っている。人間としての「私」がいて、何をするにも「私」がやり「私」が所有すると思っている。しかし修行が進むうちに「心が自分を創り出している」ことを理解する。
つまり私たちは修行に入る前は「私」という主体が存在し、その「私」がこの心身を支配していると思っているのだが、その「私」なるものは、心が創り上げた妄想だと理解するわけだ。そして修行に熟練すると、常に心とともに在り、行う者も所有する者もいない状態を観るようになる。
修行者
怒りがある時は無知も働いているとはどういう事ですか?
長老
無知と怒りとは協力し合って働く。例えば「腹が立った」と言う時、無知は「自分」を妄想をする。そして「私」や「私が何かされた」という物語を創る。更に怒りは「奴がどれだけ悪か」という物語を創る。
注意すべきなのは、怒りの物語が意味を持つのは、無知が心に「自分という者」を信じ込ませるからだ。もし「自分」という者が本当は存在しないのなら、それに基づいた怒りの物語もまた、現実のものではないという事になる。さて、あなたの怒りの物語は現実味を帯びているか?否か?