ミャンマー納豆を食べる時
梅干しやラッキョウは中国が発祥の地で、高菜漬けは中央アジアで生まれ、中国を経て日本に伝わったと言われています。ということは、それらは日本に伝わったのと同様に、中国からミャンマーにも伝わったのでしょうか?
この件について、ウ・ジョティカ長老の著書『自由への旅』の翻訳者で、現在は東京で弁護士として活躍している魚川祐司氏は、「戦時中に日本軍が伝えた」という説をとっていました。それも一理あるかもしれません。というのも、梅干しやラッキョウならまだしも、納豆は日本発祥の食べ物だからです。
ちなみに、ミャンマーの人たちは折り鶴も折ります。ここまで来ると、もう間違いないという気がしてきます。
しかし、ミャンマーの人々は、それらが日本から来たものだとはまったく思っていません。ちょうど日本人が、カレーやラーメンをインドや中国から来たものだと意識せず、自国の食文化として受け入れているように、これらの食品もすっかりミャンマー人の生活に溶け込んでおり、もはやミャンマーオリジナルの食べ物だと思われているようです。
そんなこともあって、私はマインドフルネス瞑想も、いつの日か日本人の間で「ミャンマーから伝わった」と思われなくなるほど、自然に日常に根づいていけばいいなと――ミャンマー納豆やラッキョウを口にするたびに、思わずにはいられません。
修行者
心の状態を良好に保つ秘訣を教えて下さい。
長老
少欲知足でいる事ができれば、日常生活において、心をシンプルで安定した状態に保てる。大きな期待は修行を妨げるわけだ。例えば心が乱れた時、呼吸のようなシンプルなものに注意を向けて満足できるなら、直ぐ落ち着ける。
もし心が「シンプルなもの」に満足できれば、自然と落ち着き、考える事より「気づいている事」に熱心になれる。心の状態が良いのは、瞑想が上手くいっているからではなく「気づいている」からだ。私たちは「経験」を育てているのではなく「気づき」を育てようとしている。
修行者
心が弱いので強くなりたいのですが。また、自分の周囲の環境もあまり良くありません。
長老
私の師は、苦しんでいる時は自分自身の弱さが原因だと教えてくれた。そうすれば、他人を責める事はない。誰もが他人が自分を苦しめると思いがちだが、それだと世界中が問題になる。
弱さとは、智慧が足りないか、正しい考え方ができていない事だ。自分自身を強くすれば、目の前のものに怒らされる事もなくなる。日常生活の中で周囲の環境に不安にさせられたなら、自分の心を観察するといい。もし心が平穏でいられたら、その困難を乗り越えた事になる。
環境が自分を動揺させたり、不安にさせたりする事はできない。もし、あなたが心の観察に熟練すれば、どこにいても自分のサマーディ(集中・平静)を保てるようになるだろう。つまり、心をしっかり保てば、場所は関係ないわけだ。十分な智慧さえあれば、心は乱されない。
修行者
怒りや貪欲さから離れるのが恐ろしく感じられます。
長老
私たちは煩悩によって概念の世界に囚われ、囚われの身となっている。貪欲さ、怒り、無知に催眠術にかけられ、依存しているのだ。だから煩悩から離れようと気づきをもって取り組むと、強い禁断症状が現れてしまう。
日常生活の気づきを実践している中で、怒りや貪欲さに圧倒されている時は、それが単に、煩悩依存症の禁断症状や解毒作用であると思えばいい。そうすることで、気づき続ける事が楽になる。そんな時に怒りや貪欲さからくる思考を信じてしまうと、催眠状態から抜け出せない。
修行者
同時に複数の対象に気づくには、どうしたらいいですか?
長老
対象に注意を向ける時に、対象から一歩引く事だ。これには2通りの方法がある。1つ目の方法は、対象に注意を向けるエネルギーを少なくする事。それで一歩引いたことになり、複数の対象に気づく事ができる。
もう1つの方法は、気づいている心、つまり「知っている心」に気づく事。対象を知っているその心を認識することが、本当の意味で一歩引く事になる。最初の方法は、集中を弱める事で一歩引き、2つ目の方法は、気づいている心を通して対象を知る事で、一歩引くというものだ。
修行者
私は、心がどのように考えるかによって、体験が違ってくると気づきました。
長老
そう「彼は私に怒っている」と考えるのと「彼が怒っている」と考えるのとでは感情の発生のしかたが違う。つまり違う体験をする。それは「私」のせいだ。「私」「私自身」が問題になる。
修行者
今朝、身体に不快感がありましたが「不快な身体は瞑想とは関係がない」と思いました。不快はただの対象であり、それが私の瞑想を止める事はできません。
長老
その通り。しかし、多くの人は苦しみを対象として使いたがらない。中立的か心地よい対象を好む。
修行者
瞑想中に現れてくる音や雑念などの様々な対象物は、私たちを瞑想させる事も、瞑想を妨げる事もできません。瞑想しているのは心の方です。
長老
そう、対象はあなたとは異なる。対象を用いて瞑想できるのは智慧の働きだ。瞑想とは心の働きであり、対象の働きではない。
修行者
なぜ私たちは「気づいている心」や「知っている心」に注意を向ける訓練をするのですか?
長老
瞑想中に嫌な事やハマっている事などを思い出しても、それに囚われずに観察し続けるためだ。全ての対象を中立的に観察できれば、朝から晩まで一日中気づき続ける事ができる。
瞑想は結果ではなく、「行う事(気づきそのもの)」の方を重視する。そうしなければ五蓋を落ち着いて観察する事ができない。しばらく気づきを失っていても、結果ではなく、「行う事」自体に価値を置いていれば、思考に迷っていたと気づいたその瞬間に、瞑想を再開できる。
修行者
私は死に臨む時にも気づいていられるように修行しています。
長老
それが一番いい備え方だ。私たちは、何も準備ができていないまま死なないように、気づきを持って準備しておくべきなのだ。しかし合宿中に死ぬ事はあまりないので、合宿が終わっても気づいているように。
修行者
私たちの存在について教えて下さい。
長老
私たちという「人」は、記憶や思考、感情と共にある時に存在している。しかし、心の中で起こっている事に注意を向けている時には、存在していない。言い換えれば、私たちは概念の世界に存在しており、心の現実には存在していない。
実際には、私たちのこの心身に「私、自分」などといった主体は存在しない。この心身を操作しているオペレーターは存在していないのだ。そこには、ただの心身のプロセスだけがある。「私」は概念に目を向けた時に発生してくる、心が創り上げた、心の中にだけある幻想だ。
修行者
この心身に主体がないとは、どういう事ですか?
長老
この心身を動かしている者はおらず、この心身自体が自分という事だ。何かを考える者がいるのではなく、思考や感情そのものが自分だ。しかし、その思考や感情に引き込まれるため「自分」という存在を強く信じるようになる。
思考や感情そのものが自分という事は、貪欲さや怒りの体験もまた自分自身という事になる。その、無知、貪欲さ、怒りから発生する幻想に惑わされたくなければ、いつでも何が起こっても気づくように心がけ、何度気づきを失っても気づきに戻り、それを継続させるようにするしかない。
修行者
理由は不明ですが、常に心身に緊張感があります。
長老
日常生活における緊張感は、瞑想のいい対象になる。なぜならそれは、何かを見たり聞いたり、体験したりする時、「私が見る、私の感覚、私が行う」と考える習慣が原因となって生じてくるからだ。
私たちが思考や感情に没頭している時、つまりその体験を「私のもの」として考えている時は、既に緊張が存在している。だから、気づきを取り戻そうとするたび、いつでもその緊張に気づく事ができる。たとえ座って瞑想している時でも何らかの緊張があり、観察する事ができる。
修行者
瞑想中に現れる雑念や感覚の「良し悪し」を判断しないというのが難しいです。判断しないと何もわからないのではないですか?
長老
今の瞬間に気づいているだけでいい。今の瞬間には判断も解釈もない。そして、何もわからなくていい。その状態で気づき続けるように。
修行者
感情が発生した時、その原因を探求したくても、速く過ぎ去るのでできません。後でしても大丈夫ですか?
長老
もし速すぎて探求する時間がなければ、そのままにしておく。それはすでに過ぎ去っており、後から戻ってそれを解決しようとしたり、理解しようとする必要はない。
探求するというのは、それについて「考える」事ではなく、心の中で実際に起きている事、例えば思考や心と身体の反応等を、その瞬間に事実として知る事だ。探求とは、気づきをもって確かめる事と言ってもいい。後で時間をかけて振り返ることは、単なる「思考」にすぎない。
修行者
私は妄想に陥りやすいのですが、これが無明ですか?
長老
今、あなたは何をすべきかわからない状態だが、それが無明(モーハ)だ。それはすでに目の前にある。他にも「無明」は様々な形で現れる。例えば、思い込みをする癖や、事実でない事を信じる癖もそうだ。
無明に気づいた時は、それに気づいている「気づき」そのものにも目を向けなければならない。私たちが無明に気づけるのは「気づき」があるからだ。この「気づき」のほうがより重要で、無明はただの対象にすぎない。妄想の中で迷わないためにも「気づき」を認識する事だ。
修行者
いつも「私はなぜこんなダメな奴なんだ」という思いで落ち込んでいます。
長老
心には多くの不健全な性質が現れてくるため、多くの否定的なものを観てしまう。そうした心の状態をただ認識することができず、自分と結びつけてしまうと「私の心はなぜこうなんだ?」となる。
ダンマ(法)の実践の基本は、見るもの、聞くもの、感じるもの、思い出すものを「良し悪し」「優劣」の判断をせず、「私のもの」ともせずに、心の自然な働きとして観る事だ。たとえ不快な体験をしている時でも、それを排除せずに観れば、興味が出てきて心は活気を取り戻す。
修行者
気づきの練習のために「歩いている、食べている、飲んでいる」とか「見ている、聞いている」と、今この瞬間に自分が体験していることを言葉にするのはどうですか?
長老
現実に基づかずに言葉を繰り返しているだけだとまずいが、実際の体験を言葉にしているなら大丈夫だ。
瞑想は、今体験している事に名前をつけるつもりでやると、しっかり気づける。だが、気をつけなければならないのは、現実に基づかずにただ言葉を繰り返すだけにならないようにする事だ。実際に体験している事を言語化していればそれは気づきであり、その時は幻想から脱している。
修行者
心の中に幼い頃から一貫して変わらない「私」という存在があるように感じます。そこから自身について理解しているのですが?
長老
それが私たちの普通の感覚だ。しかし、実際にはその「私」という存在は、心によって創られたもので、心の中に実在しているわけではない。
修行者
瞑想を始めると最初から心が緊張しています。しかし、それに気づくと落ち着きます。なぜ落ち着くのかはわかりません。それは探求すべきでしょうか?
長老
毎回そうなった時にただ気づいていれば十分。そして心が落ち着いたらそれに気づく、ただそれだけで探求は要らない。
瞑想中は様々な体験をする事になるが、それについて答えを持つ事は重要ではない。重要なのは、気づき、認め、今起こっている事を認識する事だけだ。『ああ、今私は緊張しているな』とか『今はもう緊張していない』と。つまり緊張しているかしていないか、それだけ知ればいい。
修行者
瞑想中、呼吸に注意を向けると、鼻や額のあたりに緊張を感じます。以前、一点集中の瞑想を行っていたので、その時の習慣から来ていると思います。
長老
もし瞑想が妨げられているように感じるなら、別の対象に切り替えた方がいい。それはあなたにとって適した対象ではない。
私たちの心と身体は、常に相互に影響し合っていて、習慣的なパターンを形成するようになっている。同じ条件に出会うと、心と身体は、以前と同じように反応してしまうのだ。それは既にそのような習慣的な反応パターンができているからだ。この事を理解すれば、うまく対処できる。
修行者
瞑想中に起こる体験は、大体は知っているつもりです。もちろん、未知の体験についてはまだ知りませんが。
長老
あなたは「知らない」という事も知っている。その「知らない」思いも気づきの対象なのだから。そのように、心に起こる事は全てが気づきによって知られる対象になる。
修行者
瞑想でいい気分になっても、怒りや不安の感情を観察すると台無しになります。
長老
確かに煩悩を観察している時は、気分が良くない。しかし、それが賢明な行為である事は理解できる。賢明な行為と気分が良くなる行為とは異なる。賢明に生きたければ、賢明な方を行うべきだ。
もし、私たちが「気分が良くなる事をひたすら追い求める事の難点」と、「良い事をする事の価値」とを知っていれば、不安や恐れ、心配、怒り、欲望を観察する事に対して、より中立的な姿勢で臨むことができる。それは、トリックに引っ掛かるか、賢明に生きるかの違いだ。
修行者
今日の瞑想は雑念や思考が多く、心が散漫で三昧(サマーディ)がなかったように感じました。
長老
「心が落ち着かない」とは、「気づいていない状態」が多いことを意味する。もし「気づいている」ならば、たとえ雑念だらけでも、その時すでに三昧は存在している。
修行者たちはよく「心が雑念や騒音で落ち着かず、散漫だ」と言う。しかし、三昧(集中)の定義とは、「何かを知るのに十分に心が安定している事」だ。だから、雑念だらけでも、それに気づいているのなら、その瞬間は心は安定していて、三昧(サマーディ)があるわけだ。
修行者
私の心はとても暗く、瞑想中に罪悪感、非難、判断、不安等、様々な物語が現れてきます。それらを認識していても心は圧倒されます。そのため注意を五感に向け、物語に巻き込まれないようにしています。
長老
それが正しい。なぜならあなたは気づこうとし続けているからだ。
心がネガティブな状態にあるときは、次の方法を試すといい。あなたは「心がこのように感じたくない」と思っている事に気づいている。その「こう感じたくない」と思っている心を観察してみるのだ。もし、それが辛いようなら、五感に戻って、今までしていたようにするといい。
修行者
怒りや不安がある時はその原因を探すようにしています。
長老
怒りの原因を探す事は、それについて考えている事になる。怒りや不安がある時、気づきを保つためには、その感情そのものを観察する。なぜなら煩悩は概念や思考に心を向かわせ、気づきを忘れさせようとするからだ。
修行者
なぜ、気づきながら生きなければならないのですか?
長老
私たちは、日常生活を平穏に過ごす事を目指している。そのためには、心の中で何が起こっているのかを知り、それによって心を健全な状態へと導く必要がある。これはブッダが説いた、合理的かつ論理的な精神的な道だ。
心の中で何が起こっているのかを知れば、心を平穏に保つ方法を学び、理解する事ができる。従って、平穏に生活したい私たちの最優先事項は、日常生活の中で気づきを保つ事になる。気づきを一貫して保つことで得られる結果が、ヴィパッサナー三昧とヴィパッサナー禅定だ。
修行者
なぜヴィパッサナー三昧、禅定が発生するのですか?
長老
たとえ心が何をしていても、方向性のない思考で不安になっていたとしても 、一貫して気づきの中に留まり「思考、感情が発生した」とわかっていれば心は平穏でいられる。このような心の安定が、三昧や禅定を生むのだ。
修行者
この合宿に参加するため、いとこの結婚式を欠席しました。そのため家族から非難され、それについて考えてしまいます。
長老
瞑想中に心を乱す思考が止まらない時は、その思考に気づいている事を認識するといい。「気づきを認識する」そのためにあなたはここに来たのだから。
家族の事を考えている時は瞑想できていないなどと思わないように。家族の事は何度思い浮かんでもいい。大切なのはその思考を認識する事だ。そしてそこに「気づき」がある事を認識する。それで立派な瞑想になっている。それが、あなたがこの合宿を最大限に活かす方法になる。
修行者
私は瞑想について学んだ事を何一つとして実際に体験できていません。
長老
私はあなたが何を体験すべきか話した事はない。あなたがすべきなのは、ただ気づいている事だけだ。気づきを忘れては、また戻る。それの繰り返しだけでいい。それも体験できていないのだろうか?
あなたは完璧に気づいている事が当然と思っているのではないか?しかし、実際にはあなたは頻繁に気づきを失う。もし気づいていなかったとしても、全然気にしなくていい。また気づいたときに、すぐに気づきに戻ればいいだけだ。それが「正しい態度での修行」という事になる。
修行者
リラックスしている状態だと、痛みや不快感はなくなるのですか?
長老
リラックスすると、痛みや不快感を感じなくなるという意味ではない。リラックスとは心がリラックスという意味だ。身体には痛みや違和感があっても、それに対して心は落ち着いていて平穏でいられる。
修行者
瞑想で得られる解放感とは何ですか?
長老
私たちは自らの貪欲さや怒りに、思考も行動も支配されている。楽しんでいるつもりでも、実際には束縛されていて自由がない事を、心のどこかでわかっている。自由への第一歩は自分の煩悩に気づく事。それらを排除することはできない。
気づきがあれば、自らを束縛する貪欲さや怒りから距離を取る事ができる。気づきによって私たちは、中立的にそれらを観察し、学ぶ事ができるのだ。そして気づきがあれば「私が何かを行い、所有する」という誤った幻想から抜け出し、現実を生きる事で束縛から解放される事ができる。
修行者
怒りや痛みがあると「心に怒りがある」のではなく「私は怒っている」と感じてしまいます。そのせいで緊張し、修行への自信を失います。
長老
あなたは誤解している。怒りや痛みを「私のもの」にするのが悪いのではない。「私のもの」にしている事に気づくのが修行なのだ。
「怒りがある」と自分に言い聞かせても、実際には「私は怒っている」と感じているのであれば、あなたがすべきなのは、それに気づく事だ。重要なのは、どの瞬間にも「これに気づいている」というその事実を認識する事なのだから。そして、あなたはそれにちゃんと気づいている。
修行者
気づきでネガティブな感情を消す事ができました。
長老
瞑想で心の問題が消える事があるが、それは修行の目的ではない。思考や感情を変えるのを目的とすると、かえってフラストレーションが増す。私たちは人生を新たな視点で見る方法を身につけるために修行しているのだ。
修行者
修行に興味がありません。でも、その事には気づいています。
長老
興味を持っていない心に気づき続ければ、
もし、気づきの根本的な目的が、
修行者
瞑想中は渇望感や嫌悪感ばかり観察しています。
長老
それで大丈夫。なぜなら強い渇望や嫌悪は、
私自身、最初の合宿の後に数週間、
修行者
毎日が忙しくて、気づきを忘れたまま、
長老
忙しい一日を過ごすと、
修行者
合宿前に病気になり、あらゆる種類の薬を飲んで出てきました。
長老
自分を回復させるために正しい事をするのは正しい行為になる。
あなたは体調を回復しようと、あらゆる努力を試みた。
修行者
体調が悪化した時は焦って心が乱れていました。
長老
自分が病気である事を受け入れられず、不幸に感じていたのなら、
修行者
強い痛みは怖く感じるのですが、どうやって観察すればいいでしょう?
長老
私は修行者たちに痛みそのものを観る事は、あまり勧めない。それよりも痛みに対する心の反応を観た方がいい。それで落ち着くかどうか、恐れや「耐えられない」という気持ちが静まるかどうかを観る。
もし、怒りや恐怖に圧倒されて中立的に気づく事ができない時は、心を呼吸に移したり、何か別の事をしたりする。落ち着くために役立つものは人それぞれだが、お茶を飲む、散歩に行く、本を読むなど、自分に合った方法を使えばいい。心を落ち着かせてから再び痛みに取り組むように。
修行者
頭が痛い時、三つの修行者の仕事(観察、受け入れ、理解)を適用すると、嫌悪感は生まれませんでした。でも、それだと心のプロセスや因果関係についての学びが得られません。
長老
あなたは正しい態度を理解し、修行に熟練している。だが、そこに気づかねばならない罠がある。
あなたが気づいていないのは、修行を軽くこなす術を知っている、その巧みな心だ。修行慣れして機械的にこなすようになっている。また、理解というのは、自分で無理に起こす事はできない。強い感情が起こって学べる機会が来るまで、無理に理解を得ようと状況をつくる必要はない。
修行者
何かを見たり、聞いたりすると、直ぐその対象に巻き込まれてしまいます。
長老
何かを見たり、聞いたりした時は、それらへの気づき(認識)もそこにある。だから、対象に気づいた時には、その気づきも確認するといい。それによって対象の物語に巻き込まれ難くなる。
修行者
長老はかつてショッピングモールで働いていた時、どのように修行していたのですか?
長老
私は布地屋の店員として、常に行き交う人々や物を見ていたが、それらを観察したわけではない。ただ「見ている」という事に気づいていただけだ。物を見るというのは実は概念だ。
私は「見えている」状態と「見ている」状態の違いに気づこうとしていた。それがはっきりしない時は一旦目を閉じた。すると能動的に「見る」事はなくなり、目を開けると受動的に「見えている」状態になった。私は「見る意識」を調整するため、目を何度も閉じたり開けたりしていた。
修行者
瞑想を始めて4年になりますが、今まで大変な恩恵を受けてきました。しかし、まだ決意や切迫感が足りません。どうしたらもっと決意を持てますか?
長老
恩恵を感じるのなら、それで十分。「ゆっくりでも着実に進めば勝つ」という教えを思い出せばいい。それが正しい姿勢になる。
修行の進歩を焦る必要はない。「もっとやらなくては」「今のままでは足りない」と考える事は、かえって修行の妨げになる。今のまま、着実に進めばそれで十分。 毎日の生活の中で、できるだけ多くの事に気づき、その気づきをできるだけ維持していく。それだけでいい。
修行者
瞑想修行でメンタルが崩壊した人がいます。
長老
もし私たちが、心の中の出来事に気づきを忘れてのめり込むと、幻覚、不安、怒り、悲しみ、欲望、あるいは後悔や罪悪感に圧倒され、簡単に正気を失ってしまう。だから修行者は、常に気づきを中心に心を保つ必要がある。
ミャンマー大地震の被災者救援のためのチャリティー落語会が、両親がミャンマー人の落語家、桂蝶の治さんの呼びかけで行われました。落語家の皆さん、ありがとうございました🙇