【ウ・テジャニヤ長老の名言第27集】

2025年9月5日金曜日

名言集

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「心を身体に留める」
というシンプルな方法


以前、「修行者列伝」でこんなエピソードをご紹介しました。 
ある女性が、修行中に「人の目が気になって仕方ない」という状態になった時、
指導者から「心の注意を身体から外に出さないように」と言われ、
その通りにしてみたら、あっという間に気にならなくなった——という話です。 
このお話、思いのほか反響がありまして、
「その“心を身体に留める”方法をもっと知りたい」という
お問い合わせを何件かいただきました。
そこで今日は、この場を借りて少しだけ補足してみようと思います。

ミャンマー式の

シンプルな習慣




ミャンマーの瞑想センターでは、どんな時でも「心がどこにあるかを常に把握しておく」よう指導されます。 滞在中は、心が身体の内側にあるのか、それとも外に出てしまっているのか、自分ではっきりわかっていなければなりません。 

 心が外に出ているとは—— 目に映るものや耳に入る音、あるいは頭の中の雑念に気を取られ、気づきを失っている状態です。

逆に、心が身体内にあるとは—— そうした刺激や雑念に「気づいている」状態のこと。

つまり、今この瞬間に意識があり、目覚めている時、心は自然と身体に収まっているのです。 ちなみに、注意を外に向けても、その行き先に気づいている限り、心は対象に囚われません。


「外に出た心」は

悩みを連れてくる





 瞑想センターで

「他人の目が気になって仕方ない」

「誰かの言葉に傷ついた」

「将来が不安」など、

メンタル面の悩みを指導者に相談すると—— 
 ほぼ必ず返ってくる答えは

「心を身体内に留めなさい」です。

流派によってはカウンセリングのようなやり取りがありますが、ミャンマー式ではシンプルにこれ一択。 
 裏を返せば、メンタルの不調とは、心が外に出て対象や思考に囚われてしまっているサインだということです。


方法は意外と簡単



「心を身体内に留める」と聞くと難しそうに思えますが、やることはシンプルです。

例えば


鼻先やお腹に注意を向け、呼吸を感じる


身体の緊張や動きを感じ取る


そうやって身体感覚に心を置きながら、見たり聞いたり考えたりする内容に囚われないようにします。  無理に心を閉じ込める必要はありません。


軽く“居場所”を戻してあげるだけで大丈夫です。


効果は、きっと自分の心で実感できるはずです。




結局は「今に気づく」こと




 「心が外に出ないように」という指導は、

言い換えれば「今この瞬間に気づいていなさい」ということです。


瞑想は同じことを言うにも流派ごとに表現が違うので、初めて聞くと戸惑うかもしれません。
でも実際にやってみると、「あれ、これっていつもやっていることだったな」と思うことが多いものです。
ですから、聞き慣れない言葉に出会っても、慌てずに実際試してみる
——それが一番の近道かもしれません。






瞑想の指導で国内外の色んな場所に出かけるウ・テジャニヤ長老


修行者

瞑想中に蚊に邪魔されました。最初は落ち着いて蚊に刺される過程を観察できていたのですが、目の周りに来ると恐怖が湧き上がってきました。


長老

別に蚊に刺されて取り乱しても、それに気づいていれば何の問題もない。また、気づいているために冷静でいる必要も全くない。


たとえパニックになったり、取り乱したとしても、それに気づいていれば十分だ。にも関わらず私たちは「自分はちゃんとできなかった」と考えてしまう。それは「気づきは心を改善し、落ち着かせるもの」と勘違いしているからだ。実際は、気づきはデータ収集のためのものなのだが。



修行者

瞑想しているとあまり深い理解が得られないのに、瞑想していない時により深い理解が得られる事があります。


長老

意図的に瞑想していない時の方が、より深い理解が得られる。一方で、瞑想している時に得られる理解はあまり深くない。だから日常生活の気づきが大切になる。



修行者

瞑想していない時は、リラックスしているから深い理解が閃くのですか?


長老

それは、瞑想しようとしていない時には「自分が修行している」という考えがないからだ。つまり「私が瞑想している」のではなく、「瞑想が自然に起こっている」状態だから、智慧が閃きやすくなる。



修行者

瞑想中は自分をコントロールしないという理解で宜しいですか?


長老

そう、私たちが行っているのは、宇宙の法則が起こっているのをありのままに見つめる修行だ。それをよく憶えておかないと、自分を悩ませるものを取り除こうと必死になったり、欲しいものを追い求めたりする。



修行者

長老の助言に従って、嫌悪の心を観察しましたが、嫌悪感が強くて気づきに気づくどころではありませんでした。


長老

しかし、あなたが嫌悪を知っているのは、それに「気づいている」からではないか?気づきを認識していれば、それは「気づきに気づいている」事になるのだが。


気づきと対象の両方があり、その両方を知っているなら、あなたの注意はすでに気づきに向かっている。そうなると、対象に対する好き嫌いはもうない。なぜなら、今や気づきそのものが対象になっているからだ。すると、対象に対する判断がなくなり、心は平静になっていく。



修行者

何かを見る時、「見る」という意識に注意を向けると、それが長老だとか修行者だとかの判断をしなくなり、ただの対象になります。


長老

それに気づいたのは良い事だ。あなたは心の働きを理解した。

そう、私が対象なのではなく、「見る」という行為自体が対象になる。


私たちは、見るもの、聞くもの、感じるもの、何でも価値判断をし、意味を持たせずにはいられない。しかし、私たちがどんなに巧妙に意味づけをしても、実際にはそれらに全く意味はない。全てのものはただ発生し、消えていくだけだ。 意味を持たせなければ、感情も生まれない。



修行者 

最初に「気づき」の瞑想をした時、心がとても緊張しました。後になってリラックスしてみたら、それでも気づきは保てるとわかりました。


長老

それが正しい方法だ。努力しなければそれがわからなかった。そのように、中道を見つけるには、まず両極端を体験する必要がある。






修行者

私は若い頃から美しいものを見るのが好きで、それが瞑想に影響するのではないかと心配です。 



長老

心配するより、その「感謝の心」をただ観察した方がいい。瞑想に影響すると考えるより、

何かに感謝したり、美しさを感じている時の、感情や心の状態を知るようにする。



瞑想とはどんな場合でも、心身に何かが起きている「その時」に気づき、「今、それが起きている」と知る事だ。美しいものが好きだからといって、瞑想に悪影響を及ぼす事はない。ただ、それを知ればいいだけだ。もし、何かを失うことに恐れを感じているなら、そこには執着がある。




修行者

無知とは妄想する事を言うのですか?



長老

妄想もそうだが、無知は常に知覚や記憶を使って心の注意を概念に向けさせ続ける。例えば「自我(自己)」という感覚がしっかりと存在しているように思えるのは、無知が私たちに「自己」という知覚を完全に信じ込ませているからだ。



私は恐怖を観察し、それが強くなってきた時は、不快な感覚そのものに注意を向ける。それでも落ち着かない時は、自己の実体感に意識を向ける。それでも落ち着かなければ、呼吸に避難して恐怖をやり過ごす。 そのようにして無知に「私が体験している」と思わさせられないようにする。




修行者

努力しようとする時、「私」という感覚が発生する事に気づきました。



長老

長い間の習慣により、あなたが努力しようとする度「私」が現れる。努力に「私」がついてくる。 しかし、努力もまた自然であり、心の性質の一つであると理解すれば、努力の中にある「私」は消えていく。




修行者

瞑想中に気づいているかどうかを確認する事ができません。



長老

私たちは最初のうち、呼吸などの対象に注意を向け、気づきを失っては戻る事を繰り返す。

それをやるうち、対象とともに「気づき」「認識する心」も認識できるようになる。 段階的にできるようになるわけだ。



その段階になると、対象よりも「認識する心」により注意を向けるようになる。この段階はとても重要だ。なぜなら私たちは、思考や感情に引き込まれやすく、嫌な事を変えようとして、気づきを忘れてしまうからだ。しかし気づきを追っていれば、思考や感情に巻き込まれずに済む。




修行者

スピリチュアリティ(精神性)とはどういう意味ですか?



長老

スピリチュアルとは概念的なものであり、それは心の質に依存する。もし私たちが善なる心で行動すれば、私たちはスピリチュアルであり、もし不善なる心で行動すれば、スピリチュアルではない。



例えば布施(ダーナ)を行う時、喜びとともに尊敬するお坊さんに食べ物を捧げる事もあれば、気分がすぐれないまま捧げる事もある。もし、布施の最中に怒り(ドーサ)に気づいているなら、その心は不善ではなく、善心になる。なぜなら、その心は怒りから離れているからだ。




修行者

私には障害を負った子供がいるので「なぜ私だけがこんな目に遭う」と、誰かに怒りをぶつけたくなります。


長老

責める相手は自身でも、子供でもない。ダンマ(法)においては、すべての結果には複数の原因があり、様々な要因が組み合わさって起こっている。


辛い目に遭い、過去の出来事や、未来に何が起こるか、なぜ自分が再び苦しんでいるのかという思考が繰り返し浮かんでくるのは自然な事だ。だが「また同じ事が起きている」という感覚があると心が折れてしまう。なぜなら私たちは、それを本当に信じてしまうからだ。


苦しむたびに私たちの心には「なぜ私はまたこのような経験をしなければならないのか?」と、過去や未来のイメージが何度も何度も頭の中で再生される。しかし、現実にはただ「今、起こっている事」があるだけで、再生ではない。 それを理解し、前に進んだ方がいい。


修行者

高齢の母の介護をしていますが、母の考え方は仏教徒の私とは違うため、何か言うたび衝突して苛立ちます。


長老

私たちはストレスを感じている時、誰かのせいで感じていると考えがちだ。しかし実際にはストレスは、物事が思い通りにいかなかった時に発生する。


あなたが強くある考えに「かくあるべし」と固執していて、それと違う事をされるとストレスになる。ストレスを減らすには、その考えへの固執を緩めるしかない。そのためには、常に気づいて心をクリアに保ち、考えに固執しないようにしておく必要がある。




修行者

瞑想が上手くいかず、自信を失います。


長老

私は落ち込んで自分をよく思えなかった時は、すべてを「気づき」に注ぎ込み、あれこれ考えるのはやめた。やるべき事を気づきを保ちながらやり、そうした感情が出てきた時は、それに気づくだけにしていた。


私の注意はただ「今、気づいているかどうか」だけに向けらていた。すると、心はあまり考えたり、何かを直そうとしたりしなくなり、否定的な思考の悪循環にも陥らなくなった。 気づきが勢いを得てくると、心は思考が少なくなり、明晰になる事がわかった。


サティ(気づき)三昧(集中)が継続的になると、自然と信(サッダー)や確信も強まり、心が落ち着き、自分に対する確信が生まれる。 気づきと心の安定が増すと、それに伴って自信も自然に増すわけだ。だから上手くいかない時は、それに気づき続ければいい。


修行者

でも私はまだ「もっと努力しなければ困難を乗り越えられない」と思ってしまいます。


長老

そのような思考を信じるのをやめた方がいい。それらは否定的な思考で、自分自身にそう感じさせ、自ら創り上げた「私はダメ人間」という物語を、自らに信じ込ませる。


自身についての否定的な思考に気づいたら、立ち止まって「どうやって修行を続けていくか」だけを考える。思考を止めて、気づくのだ。それを継続する。なぜなら、その思考は習慣になっていて、それに代わる「気づき」を新しい習慣にする必要があるからだ。


修行者

雑念や感覚を観察していると、その相関関係について考えるようになるのですが、これは洞察でしょうか?


長老

その考えが観察を助けるのなら洞察だが、体験に基づいた理解がないまま体験の意味を追いかけているのなら、それはただの妄想になる。


しばらく観察を続けていると、心は思考によって体験を探求し始める。しかし、体験に基づいた理解がないまま、その体験の意味を追いかけるのは妄想であり、気づきから心を逸らしてしまう。もし何らかの気づきが起これば、それは心をさらに観察へと導いてくれる。


修行者

気づきの実践は、どのようにして功徳になるのですか?


長老

気づきを継続させる事は、悟りに至るための十波羅蜜を完成させる事につながる。具体的に言えば、 十の徳目を実践しながら心を観察すれば、功徳を積みながら心も浄化されるわけだ。


例えば布施を行う時、どのような心でそれを行っているかを観察する。それは「チャーガ(寛容さ・惜しみなく与える心)」からか?それとも執着やためらいながらか? という風に。同様に、戒を実践する際にも、気づきが私たちの行動を清める助けになる。


修行者

瞑想よりも仏教理論を学ぶ方が好きです。瞑想はそんなに必要なものですか?


長老

瞑想についてのどれほど賢く正しい考えであっても、それは一瞬の気づきには及ばない。なぜなら、その一瞬が心を自由にするからだ。それは人生の重荷からの自由だ。




修行者

座って瞑想すると、いつも眠気に襲われてしまいます。


長老

大切なのは、それを習慣づけるないようにする事。身体感覚を頭から順に細かく感じていくとか、それでもダメなら歩く瞑想に切り替えるとか、何とかして習慣的ループに入りこまないようにする事だ。


もし座っていて眠くなっていると気づいたら、その状態から自分を引き離す必要がある。私は、頭に何かを載せる事を勧める。ペンでもノートでもいいから、あまり重くない物を載せると、それが落ちないようにしようと心が活動的になり、目が覚めるからだ。


修行者

自身の瞑想体験について考察するのは、気づきにとって有益ですか?


長老

考察は気づきには役立たないが、以前の気づき方を振り返ったり、自分が気づいていた事を認識していたかどうか、また次にどう気づくことができるかを考えるのであれば、それは問題ない。


過去の体験について考えても意味がない。体験している最中に何かを理解したというのであれば有益なのだが。その時点でヴィマンサという探求が起きており、観察している中で何かに気づいたという事になるからだ。それでも、今の瞬間に関心を持つ方がはるかに有益だ。


修行者

私は怒りっぽくて、食事の時に並んだり、準備ができるのを待ったりしていると苛立ってしまいます。


長老

怒りは、物事が思い通りにならない時に発生する。だから何かをするたび、望んだり期待したりしている事に気づくように。それが苛立たなくなる唯一の方法だ。


修行者

暑くても風や水の音を聞くと涼しくなります。


長老

そう、心がその感覚を生み出したのだ。 もし良いサマーディ(定)があれば、本当に涼しくなるし、寒いと思えば身体も冷たく感じる。この現象をチッタジャ・ルーパ、つまり「心によって生まれる物質」と呼ぶ。


チッタジャ・ルーパについて観察する場合は、そのプロセスを観る。 心身に何が起きているのかを繰り返し確認していけば、徐々に自分の心がそれを生み出しているのが見えてくる。それがわかれば、寒い時に「熱」を思い描くことで身体を温かく保つ事もできる。


修行者

瞑想中に心が空白に感じられました。大きな空間のようで、空っぽなのに本当に空っぽという感じではありませんでした。そういう感覚でした。


長老

それがあなたの体験なら、ただそれを認識して、再び気づきに戻るように。その体験の物語に囚われない事だ。


瞑想中は、たとえどんな体験をしたとしても、それを大げさに捉えず、それも修行の一部にすぎないと見る。私たちは体験の道ではなく、気づき(マインドフルネス)の道にとどまる必要があるのだが、体験に気を取られると、その気づきの道から外れてしまうからだ。


修行者

気づきを継続させるコツはありますか?


長老

智慧と心の静けさがなければ、気づきの継続は難しい。 だが、特定の対象に固定されない「気づき」に従って実践を続ければ継続しやすくなる。 つまり対象よりも気づきに注意を向けた方が、より簡単に継続できるわけだ。


修行者

家族への執着が凄く強いのですが。


長老

家族への執着から離れるとは、出家するとか、家族を大事にしないという意味ではない。普通に家族を大事にしながら、心が「私の家族」と言うたび気づくようにする。何かに執着すればするほど私たちの心は苦しむ事になる。


心が「私の家族」と言う時、 それに気づく。 自然のものに「私の」と執着すればするほど、心はより苦しむからだ。執着は繰り返しの思考から生まれる。 強い執着は、愛するものを失った時に大きな苦しみとなって返ってくる。 だが、原因が理解されれば苦しみは終わる。




修行者

職場や家庭でも、気づきが継続するようになりましたが、座って瞑想する時は継続できません。


長老

座って瞑想する時に何かを期待しているのではないか?物事が計画通りに進んでいないと感じる時は、まず自分の期待をチェックするといい。


あなたは座る瞑想よりも、日常生活での気づきに慣れているが、何でもたくさんやる事の方が、油がさされてスムーズに感じられるものだ。慣れていない事には錆びつきを感じる。 それに気づけば座る瞑想をやる時にも、ぎこちなさを受け入れる事ができる。


修行者

嫉妬を観察していましたが、とてもまとわりつく感じがしていました。気づきを観るべきだと思っていますが、どうすればいいでしょう?


長老

煩悩が強く、まとわりつくような時は、気づきを観るのは難しい。そのような時は、呼吸の観察に切り替えるといい。


修行者

長老の著書「気づくだけでは不十分」の中に『気づくだけでは不十分であり、心の中で何が起こっているのかを理解しなければならない』とあります。気づく以外に何かをするのですか?


長老

何もしない。ただ気づいていれば、起こっていることがわかる。


『理解しようとする欲求』は、気づきとは別の行為ではなく、気づきそのものの性質になる。だから、何が起こっているかを理解するのに、何かをする必要はない。 つまり『起こっている事に気づけば、その気づきを通して心を学び、理解する事ができる』わけだ。


修行者

特定の人に慈悲を送っていた時、その慈悲のエネルギーに気づきました。


長老

慈悲のエネルギーを観る事は、心を観る事であり、それはヴィパッサナーの実践になる。 慈悲を生じさせるために誰かを使い、エネルギーが勢いづくと、それが観えるようになる。


慈悲のエネルギーを観る事ができるのと同様に、気づきのエネルギーも観る事ができる。智慧がついてくると、対象を観察している時、気づきのエネルギーも認識されるようになる。智慧がついてくると、修行は自然に広がっていくのだ。それが智慧の働きというものだ。


修行者

物事を価値判断せずに、ありのままに見るのが難しいです。


長老

何かを見たり聞いたり、思い出したりした時、その感覚を変えようとせず、そのままにしておく事だ。自分も自然のものだし、自分に起こる事も自然の事だから、自然現象を見るつもりになるといい。


修行者

瞑想中に眠くなり、その眠気に嫌悪感が出てきました。そこで嫌悪感を観察していたのですが、巻き込まれてしまいました。


長老

嫌悪感に気づいた時は、気づきの方にとどまっているように。せっかく気づいたのに、嫌悪感を見るのに夢中になったから巻き込まれた。


嫌悪感に気づいた時、そして「対象」「気づき」の違いが分かった時は、「気づき」の方にとどまる。 気づきにとどまるとは、気づいている事を認識する事だ。 気づきに頼り、その気づきがどう続いているかを知る。そうすれば感情に巻き込まれる事はない。


修行者

気づきが増えると煩悩も多く見えてきて、自分が嫌な感じになります。


長老

その視点は大切だ。それは、気づきが増えたからこそ、より多く見えるようになっているという視点だ。 より多くの煩悩が見えるという事は、それだけ気づきが増しているという事なわけだ。


気づきが増えているのは良い事だ。自身の煩悩が見えてきたというのは、実は気づきが増えてきたという事。 つまり瞑想が上達しているというのは、それまで見えなかった自身の貪欲さや怒りっぽさ、愚かさが、よく見えてきて、その醜悪さを恥じるようになるという事だ。




修行者

私は暗い所や高い所が怖くて苦手だったのですが、恐怖心は思考によって発生するとわかりました。暗い所や高い所にいても、気づいていて、恐ろしい事を考えなければ、何も怖くありません。その違いはとても明確です。


長老

その通り。とてもいい事に気づいた。


修行者

瞑想中、正しい情報や態度をどう利用しますか?


長老

心の中で起こっている事を観る時、それを「自分」「自分のもの」とは観ず「自然のもの」として観る。最初は納得しないまま、正しい情報に従って観察するが、やがてそれが「自然」と理解できるようになる。


また、正しい態度とは、自分の心がもっと喜んで観察する事ができるようにと、自分に言い聞かせる事だ。例えば嫉妬している時、嫉妬をなくそうと考えるのではなく、嫉妬している事を観ようとするのが正しい態度だ。心が観る事を厭わず、進んで観るように仕向けるのだ。


修行者

瞑想中に嫌いな人の事を思い出すと、その人について「なぜあの人はあのような態度をとるのか?」と、分析する癖があります。


長老

それを「対象に囚われる」と言っている。考える前の怒りや嫌悪感が発生した時点で気づかないと、堂々巡りに陥る。


瞑想は、対象によって感情が発生した時点で気づくのと、考えてから気づくのとでは、気づきの効果が違う。怒りや嫌悪感から心を守りたければ、感情の時点で気づく必要がある。対象について考えたい時は、その欲求に気づき、対象に囚われないようにした方がいい。


修行者

日常生活の中では、どうしても楽しい事や嫌な事に囚われます。


長老

日常生活にダンマを取り入れるとは、ただ「心が体験の中で迷っていないか」を定期的に確認する作業と言っていい。体験する事ははそのままでいいから、それに気づき、確認しながら生活する事だ。


修行者

誰かの話を聞いている時、気づいているかどうかを確認すると、話の意味がわからなくなります。


長老

方法は何も間違っていないが、選ぶ必要がある。話を聞きたい時は、気づきではなく「聞いている」事を確認する。そうすれば対象と聞いている事がわかる。


何かを見たり聞いたりして、対象を知る必要がある時は、その事に注意を向ける。しかし、対象を知る必要がない時は、自分の気づきを確認する。そのうち 修行が進めば「気づいている事」を意識しながらも、同時に概念的に何が起こっているのかがわかるようになる。


修行者

気づきながら生活していると、心も爽やかになります。


長老

私たちの心の中は通常、貪欲さや怒り等でいっぱいだが、気づきがあると、それらの煩悩がない。気づきと煩悩とは異なる性質を持っている。気づきと煩悩の違いを理解するほど、気づきを保ちやすくなる。


私たちは瞑想で、煩悩の性質と気づきの心の性質を知ることができる。煩悩の経験は心をかき乱し、重く固く感じられるが、気づきは軽く、柔らかく、しなやかだ。 だから、日常生活に気づきを取り入れる場合、気づきの性質に気づけば気づくほど、正念を保ちやすくなる。


修行者

気づきを継続させるためには、気合いを入れて勢いをつけるのですか?


長老

いや、そういう姿勢ではなく、自身を励ましながらやる方がいい。リラックスした方が気づきは継続しやすくなる。貪欲さのエネルギーではなく、智慧のエネルギーを使って修行するわけだ。



修行者

常に不安や恐れを抱えている者が正しく修行できますか?


長老

私は以前、強い恐怖や抑うつ状態に苦しんでいた。しかしその経験を通して一貫して気づきを保ち、学んだ結果、もはや心に揺さぶられる事はなくなった。心が示すもの全てに気づくようになった。


私が学んだ事は、心を根本的に苦しめるものと、心を苦しみから解放するものは何かという事だった。それによって、心はもはや自らを苦しめるような事をしなくなった。例えば、「上手くいかない」とか「やっても無駄だ」などと、否定的に考える事がなくなった。


日々の生活で気づきを継続させるうち、私の心はそうした自動思考と言われるものを退けるようになった。少しでも動揺を生む思考が起こると、すぐに心はそれを信じず、追わず、考えなくなったのだ。もし、ある思考が私たちを苦しめるならば、それは間違った思考だ。


修行者

なぜ人生には問題ばかり付きまとうのでしょう?


長老

私たちの人生に現れるあらゆる問題は、貪欲さや執着、嫌悪や抵抗、無知や迷妄といったエネルギーから生じている。これらのエネルギーが弱まれば問題も減少し、これらのエネルギーが消えれば問題も消える。


私たちの問題は貪・瞋・痴のエネルギーによって条件づけられている。 だからこそ自分の心を気づきと共に観察する必要があるわけだ。それによって『苦しみは否定的な思考から生じ、否定的な思考が止むと煩悩は現れず、問題も止む』という理解を育てていく事になる。


修行者

子供の事で常に心配や恐れを抱えている母親に、正しい実践というものはありますか?


長老

あなたは今まさにそれをやっている。つまり、経験に囚われずに一貫して気づきを保っている。なぜなら、あなたには常に心配や恐れがあり、常にその事に気づいているからだ。


心は安定しなくても、常に心の状態に気づいていれば、多くの経験や感情、それに伴う影響に気づけるようになる。そうする事で、それらについてもっと学ぶ事ができ、学んだ時には、それらに振り回される事が少なくなる。 理解が深まると、心は自ずと安定していくわけだ。


修行者

心が疲れやすいのは、エネルギーを浪費しているからですか?


長老

エネルギーを浪費している時、例えば、熱心すぎたり、腹を立てたり、混乱したりしている時というのは、貪欲・瞋恚・無明のエネルギーを使っている時だ。不善な心はエネルギーを過剰に使う。


不善な心の状態は私たちを疲れさせるが、一方、善い心のエネルギーは心を充実させる。一日を通して心が善(クサラ)の状態にあれば、一日の終わりには心が落ち着いてリラックスしている。つまりエネルギーを賢く使うには、常に気づいて心を善心で満たす事だ。


気づくだけでは不十分とは、ただ盲目的に気づくのではなく、目的をもって気づくという事だ。 気づきを通して心がなぜ苦しむのか、対象の意味は何か、或いは六感や煩悩に親しんでしまう事を探究できる。さもなくば、修行中にただ静寂さや眠気の中に留まるだけになる。




指導の旅を終えて自坊に戻ったウ・テジャニヤ長老。お毛が無くて、ご無事でよかった👍



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「DON'T LOOK DOWN ON DIFILEMENTS - 侮れない煩悩」入門編


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  最終更新日 2023.12.31

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