【修行者列伝〈ミャンマーで出逢った修行者たち〉#45】最後の手段に出た修行者

2021年7月3日土曜日

修行者列伝

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このシリーズでは、各地の瞑想センターで実際に出会った特筆すべき修行者たちを紹介しています。一人一人の修行者から学ばせていただいたことも多く、敬意をもってここに綴らせていただきます。



I氏 ロシア人 50代 男性






  ャンマーの瞑想センターでは、どこでも基本的には、出家者たちと一般人たちとが一緒に同じ瞑想ホールで修行している。だから瞑想センターに行けば、キャリア50年の長老も初心者も、同じ場所で瞑想する事になる。


ただ通常、出家者と一般人とは宿舎は分けられている


比丘たちは227条項もの戒律を保持している上に、出家年数によって序列が定められているため、僧院特有の人間関係を形成し、一般常識とはかけ離れた習慣の生活をおくっているからだ。


そのため、外人の場合はたとえ比丘であっても、一般人と同じ宿舎に滞在させる瞑想センターが多い。


それはやはり民主主義の世界から来た人々が、ミャンマーの僧院伝統の習慣にスンナリと馴染めるものではないからだ。


それはちょうど外人が力士に成ろうと相撲部屋に入門するようなものだ。大概の外人はストレスを感じて、修行ができなくなってしまう。


マインドフルネス瞑想のS瞑想センターの場合は、やはり比丘用の宿舎と一般人用の宿舎とが分けられていて、比丘たちは修行は同じ瞑想ホールで行うものの、生活は一般人とは分かれて、僧院での伝統的なスタイルに従って行うようになっている。


Sセンターの場合は外人比丘たちは、本館の他に別館という外人専用の小さな瞑想センターがあるので、そちらの宿舎に入る事になる。


つまり外人比丘にはどこの瞑想センターにおいても、特にミャンマー僧院伝統の生活を強いる事はないようだ。


またミャンマー人比丘たちの多くは、子供の頃からずっと坊さんで外国語を話せないため、トラブルの回避という意味もあるのだろう。


だが韓国人の比丘たちの中には例外的に、このミャンマー僧院の生活に憧れていて、外人用よりもこちらに滞在したがる人が多い。


これは一種の仏教徒としてのステイタスみたいなものだろうか?


韓国人はそうやって修行してきた人を尊敬するのかもしれない。


そういった一部の韓国人以外の修行者たちは、せっかく外人用宿舎を用意して貰っているのに、ミャンマー僧院に入る人というのは、まずいない



僧院体験 



ロシア・サンクトペテルブルク



「俺は旧ソ連軍に5年間兵役で行った事があるんだ。厳しいのは慣れているから大丈夫」



I氏がロシアのサンクトペテルブルクから、10週間の予定ではるばるミャンマーのS瞑瞑想センターまでやってきたのが2017年の暮れ。


彼は最初は一般人として修行していたが、その後思う事があったようで、出家し、沙弥(サマネラ=ミャンマー語でコーイン)になって修行していた。





I氏の出家記録動画




この沙弥というのは比丘と違って戒律が10箇条しかない


比丘のように一般人と一緒に生活しても問題ないので、滞在は一般人用宿舎になる。


I氏は沙弥になってからもしばらくの間は、他の外人修行者たちと寝起きを共にしていた。


だがそんなある日、今度は彼は「比丘になってミャンマー僧院に入りたい」と言い出したではないか。


当然の如く他の修行者たちは「行くなら別館の外人用僧院にした方がいい。あっちは厳しいぞ」と制止した。


彼は若い頃に徴兵されてソ連軍に入隊した経験を語ってみせた。



「ほら」



そして私に証拠とばかりに、徴兵されていた頃の写真を見せてくれた。ずいぶん素早く取り出したが、なぜこういうものを携帯しているのだろう?


もしかしたらI氏は、凄く優しい顔をしているので、ナメられないようにいつも兵士時代の写真を持ち歩いているのだろうか?


196センチの大男だから、そんな事はないか?




I氏



何枚か写真を見せて貰った中に彼の自宅の写真があった。


マイナス30度の雪景色だが、庭に犬小屋があって犬が住んでいた。犬はマイナス30度でも凍死せずに外で暮らしているのか?思わず驚いた。


軍隊の写真を見せるより、マイナス30度の中で生活しているこの写真を見せた方が、よっぽど根性があるように思われるような気がするのだが?







I氏によれば、毎朝ミャンマー人比丘たちと一緒に托鉢に行っているうちに彼らの凄さが判り、同じ宿舎に入って色々教えて貰いたくなったのだという。


とにかく凄い執念だ。







「まあ、そこまで言うのならやってみたら」


そういう訳で、I氏も相当な覚悟で僧院生活に挑むようだし、この調子なら心配はいらないだろうと思って、私はそう言って出家の儀式に臨むI氏を見送った。



I氏の苦悩 


 だが、そんな比丘出家に至るまでのI氏は、少なからずや修行上の迷いを抱えているように見えた。それは、彼が指導者であるSUT(セヤドー・ウ・テジャニヤ)の本にある探求テーマのひとつ「SEEING」(見える)と「LOOKING」(見る)との違いについて熱心に探求していたからだ。







ここで少し説明すると「見える」というのは一旦目を閉じて、また開けた状態と思って頂くと判りやすい。


つまり目を開けているものの、まだ対象に焦点を合わせていない状態の事だ。また「見る」というのはそれに焦点を合わせた状態。


マインドフルネス瞑想においては、この「見える」と「見る」との違いを探求する事は、悟りへの近道として奨励されている。だからみんな探求しようとするのだが、実際にやってみると難しくて中々その違いが判らない。


また、指導者は「自分で気づけ」と絶対教えてくれない。だからそれを探求しているうちにI氏は、どうしたらいいか判らなくなり、頭を抱えてしまったようだ。







「『見える』の時は視界全体に心が行き渡っていますが『見る』と心が一点に集約されて気づき難くなりました」



I氏は面接指導のたびにそんなレポートをしていた。しかしSUTの方は、それに対していつも



「他に何か気づかないか?」



と言って、彼の言う事には決して満足しなかった。だから彼はまた瞑想ホールに戻って探求を続け、次の面接指導の時には「今度こそ」といった意気込みで新たなる発見について話した。


「『見える』の時には概念は登場してきませんが『見る』と概念が登場してきます」


だが、それでもやはりSUTは「あとは何か気づかないか?」と、物足りなそうな顔をしていた。


だからI氏は「俺の探求には一体何が足りないんだ?」と頭の抱えてしまったのだ。


そして気合いを入れるために頭を丸めて沙弥出家したりもした。それでもやはり探求の答えは見つからなかったため、とうとう全てを捨てて比丘になって、足りないものを見つけてやろうとなったようだ。


そういう訳で彼の出家は、そこまで気合いを入れての事なので、誰もそれ以上は何も言う事はできなかった。



潜入レポーター 



4時からはジュースタイム



「そしたらミャンマー人の比丘で英語の出来る人がいてさ、言葉の心配は要らなかったよ。それにその人に通訳を頼めば、他の比丘たちとも話せるんだ」



翌日、夕方のジュースタイムの時間に僧院の方に移ったI氏に会うと、ジュースを立ち飲みしながら私にそのように言った。


思ったより元気そうで不安は感じさせない。


ミャンマーの比丘たちで瞑想センターに修行に来るのは基本的に40歳以下の人ばかりだ。


20歳で比丘になったとすると、40歳の時はキャリア20年にもなるので、そうなると今度は若い比丘たちの指導に回ったり、寺の仕事を任されたりするようになるので、中々瞑想修行もしていられなくなる。


しかし比丘というのは、何も子供の頃からずっとやっている人ばかりではない。


30歳になってから出家してもいいし、40歳になってから出家しても構わない。


キャリアが物を言う世界なので、子供の頃から出家していた方が出世できるというだけの事で、修行に専念したいのであれば逆に、歳をとってから出家した方が、面倒な出世争いに巻き込まれなくて済む。


だから瞑想センターにいる40代以上の比丘は、そういう在家上がりの人がほとんどだ。


大概社会人生活を経験していて、英語を話せる比丘というのはこの手のタイプだ。そしてこういう人々は、世俗の生活も僧院生活も両方知っているので、外人修行者にとっては有り難い存在になる。


僧院生活しか知らない比丘たちとの橋渡し役になって貰えるからだ。



「それで彼らに瞑想の体験を聞くと凄いよ。外人修行者たちが言っている事と全然レベルが違う。それだけで面白くてためになるし、聞いているだけでも上手くなるよ。思った通り、凄い事をやってたよ。これだけでも僧院に入った甲斐があったな。キミも聞きたい?教えてやろうかい?」



他の修行者たちが心配したのは、まるっきり取り越し苦労だったかのように、I氏は嬉しそうにしていた。しかもベテラン比丘たちの瞑想体験まで聞けてすっかり有頂天になっている。



「へえ~ずいぶん楽しそうにやってるね。心配して損しちゃったよ。何?僧院じゃあそういう話まで聞けるの?面白そうだね。じゃあ聞かせて貰おうか」



そんな感じで、私は果たして僧院のベテラン比丘たちは、一体どんな瞑想体験をしているのか?I氏の話に耳を傾けた。


潜入レポート!ベテラン修行者たちの僧院!



とうとう聞き出した解答



「ベテランたちの中には『見える』と『見る』の違いを観察している人がたくさんいるんだ。だから外人修行者たちとはやっている事が、初心者とプロぐらいの差があるよ」



確かに比丘たちは、修行で生活させて貰っている身だからプロだ。この道一筋20年、30年の人もザラにいる。


誰もが心の中をかなりの執念で探求してきているに違いない。


そしてI氏の言う事には、ミャンマー僧院にはベテラン比丘たちも多く、この難易度の高い問題を探求している人々も多いと言う。


これは凄い。本当に彼らと外人修行者たちとのレベルの差は、アマチュアとプロぐらいある。では実際ベテラン比丘たちは、その問題をどのぐらいの深さまで掘り下げているのだろう?



「俺が20年ぐらいやっている人に聞いたところ、ある比丘は『心の注意点に気をつけろ』と言ったんだ。『見える』と『見る』との違いはそこにあるという事で」




心の注意点?



これがどうしたと言うんだ?これがあるのとないのとでは、何か違って見えるのか?



「それでまたその比丘は『自分という感覚』が判るか?とも言った。だから、心の注意点と『自分という感覚』とは何か関係あるのかもしれない」



自分という感覚と心の注意点?



それが何か「見える」事と「見る」事との違いに関係があるのか?


ますますよく判らない。







その時、その話を横で聞いていた私のルームメイトのイギリス人が言った。彼はこのシリーズの第40話に出てきた人物だ。



第40話 https://somjapan.blogspot.com/2021/05/40.html



「だから何かを見ようとして対象に焦点を当てると、注意点が出てくるとか、そういう事じゃないの?だってただ目を開けているだけじゃ、注意点も何もないからさ。だからそこで何かが起こるんだよ、焦点を当てた時に」



なるほど、確かにただ目を開けている状態では何もない。するとここから焦点を合わせる瞬間に、何やら変化が起こるという事だな?自分という感覚もその瞬間に出てくるものなのか?


しかし意外な事にこのイギリス人も、何気にこの問題に取り組んでいたではないか。やっぱりみんなこの問題には少なからずや関心があるようだ。


どうでもいいが、そのベテラン比丘の探求している事は、私には難易度が高過ぎる。もっと簡単なとっかかりの部分を話して貰えると楽なのだが。サッパリ判らないぞ。


だが、私のそんな戸惑いをよそに、I氏はどんどんベテラン勢から聞いた体験を話していく。



「存在する事『有る』という事は、それを『見る者』がいて、初めて成り立つものらしい。だからやっぱり『自分がいる感覚』ってその存在の事なんじゃないの?」





見ると存在する?




そこまで行くと、もう聞いていて頭が痛い。




自分の探求とは遠く隔たっていて、参考にも何もならない。難しい教義の本を読んでいるのと同じで、聞いているだけで疲れてくる。そんな難しい話を聞いて何か心が楽になる事でもあるのか?


そう思っていた時にやっと



「あとは面白かったのは『見える』と『見る』の探求に入る時は、感情の有無から入っていくといいという話だね。どちらの時に感情が出てくるかを確認するという事。これが判りやすくていいと思った」



I氏は突然、私にも判る探求のとっかかり部分の話をし始めたのだ。まあその辺りだったら私がやっている探求とも重なってくる。そういう話なら面白い。


感情が出てくるという事は、見るものに判断や解釈を加えているという事だ。



「そうそう。だから『見える』と『見る』の違いを探求するには、まずその辺りから始めて、それから『心の注意点』の問題や『自分という感覚』の問題の探求に入り、それから存在という問題に入るんだろうね。こういう手順を踏むんだよ、きっと」



そのようにしてI氏は、ベテラン比丘たちから聞き出した話をまとめ、判りやすく解説してくれた。


それで私も、これからどういう方向へ探求を進めるべきかが判ってきて、ずいぶん助かった。


修行の方向性について示されていると言えばウ・ジョティカ長老の「自由への旅」だが、彼の仕事はその本に匹敵する。


有り難い事だ。


それにしても「見える」と「見る」との違いの探求がこれほど深いものだったとは。これじゃ、確かにいくらI氏が掘り下げてもSUTは全然満足しなかったはずだ。




ウ・ジョティカ長老




I氏の本当の目的 


 「慈悲の瞑想をやっている時には心の注意点はあるか?あるいは、見るもの聞こえるものを『OK』と受け入れた時は好き嫌いは出てくるか?その好き嫌いがあるのは注意点がある時かない時か?」


そしてそんなI氏の僧院からのレポートは、翌日も続いた。


毎日しつこくベテランたちに聞き出してるようだ。


そう言えば確かに「OK」と受け入れた時は、好き嫌いが出てこない。これもいい事を聞いた。注意点があるかどうかは判らないが、受け入れるというのは実生活で使える。これも頂いておこう。


しかしそこまで来たら、鈍い私もさすがにI氏のやっている事に疑問をおぼえた。


彼の僧院生活を見て「それってもしかしたら彼は、最初から自分の疑問についての情報を得るために出家したのではないか?」と思えてしかたなくなってきたからだ。



「僧院にいると面白い話をたくさん聞けていいよ。仏教の学校にいるのと同じ事だよ。みんな親切に教えてくれるよ。俺、今度の面接指導の時にこれを探求している事を言おう」



やっぱりそうだ!I氏が僧院に入りたがっていた理由が判った!



彼は思い悩んだ挙げ句に「最後の手段」に出ていた訳だ!



「キミも何か聞きたい事があれば言ってくれよ。何でも聞いてきてやるよ」



I氏はそう力強く言った。凄く嬉しそうだ。今まで判らなかった疑問が全て解けて、念願が叶ったというところか?



だが違う!それは違うぞ!



レベルがあまり高くない奴が、そんなベテランたちの体験を知っていても、全然似合わない!それは頭でっかちというもので、知ったかぶりに過ぎないではないか!


やっぱり自分が実際に探求して気づいた、自分の体験を言っているのでなければおかしい!


I氏がやっている事は貪欲さに駆られてのズルとも言える手口であって、本来は使ってはならない方法だ!



「ありがとう。気持ちは嬉しい。だがそれは変だよ。自分で体験した事をレポートしなければ直ぐバレるよ。頭でだけ判っているのは知識であって、智慧じゃなからさ。面接の時は智慧の話をしなければならないんだ、実際に体験した」



だから私はそのようにI氏に勧告した。まったくそんな事では、カンニングと変わらないではないか。


まあ、最初のうちはありがちな事だが。しかしロシア人がミャンマー僧院に入りたがるなんておかしいとは思ったが、やっぱり下心があったか。



面接指導でのI氏  





「雑念が出てきたら直ぐ気づいて、何か聞こえても直ぐ気づいて、身体に何か感じても直ぐ気づきます。この場合は「痛い」「痒い」「暑い」「涼しい」などと考えたら、それにも直ぐに気づきます」


そしたら次の面接指導の時、I氏はいつもの探求とは違う事をレポートしていた。マインドフルネス瞑想の基本に立ち返ったような内容だ。私の話に耳を貸したのか?



「いや、レポートする前までは今日こそ『見える』と『見る』の違いについて話そうと思っていたんだ。でも自分でもその事をよく判っていないから無理だと思って、普通にレポートする事にしたんだ。やっぱり自分の体験じゃないとダメだね。他人の体験は聞くだけにしておこう。アハハハ」



面接指導が終わってからI氏に聞くと、そんな事を言っていた。


確かにそうだ。そんな事をやっても瞑想は上達しない。彼が変な方向に走らなかったので私は安心した。でも、せっかく話を聞いたのだから、その探求はやった方がいいと思う。


「うん、もちろんだ。そのために情報を集めたのだから。しかしそれはいいが、やっぱり俺、ミャンマー僧院は出ようと思っているんだ。辛くてさ。SUTにも言ったよ『一般人に戻りたい』って。そしてたらあと何日で帰る?って聞かれて、10日ですって答えたら『そのぐらいだったら最後まで我慢しろ』って言われちゃったよ」


何だか凄い変わりようだが、I氏は気が抜けてしまったのではないだろうか?判らない事を必死になって、僧院暮らしなんか気にならないぐらい追いかけていたくせに、ある程度の方向性が掴めて安心したとたんにこれだ。


どうもI氏は熱し易く冷め易いというか、貪欲さに駆られた時は、凄い執念で獲物を狙うが、それがなくなるとコロリと態度も変わってしまうタイプなのかもしれない。


そのため夢中な時は物事の見境がつかなくなって、節操のなさを丸出しにしたものの、目的を達成した後はすっかりやる気が失せて抜け殻のようになった。



「いや、違うんだよ。俺は修行の道のりは長いって事を痛感したんだ。だってみんな凄い年数に渡って探求してるんだぜ。あの探求はひと月やふた月で判る事じゃないよ。俺は悟るってのは直ぐできる事だと思って修行していたが、この道は短距離走じゃなくて、マラソンだと判ったんだ。ずっと持続するんだよ。そう思ったら急ぐ気なんかなくなっちゃってさ。このままじゃバテると思った」



なるほど。I氏が僧院生活で得たものは、そういう教訓だったか。



それはいい事だ。



そういう実体験から得たものであれば、ベテランたちから聞き出したうわべだけの知識より、ずっと役立つのだ。



「この道を甘く見ていると酷い目に遭うよ」



そうだろう、そう思うだろう、やっぱり。


I氏が最後にした体験は凄くいい体験だ。そういう体験であれば、私は「いい体験をした」と認めてやりたくなる。そうだ、I氏は最後の手段に出て、このような素晴らしい体験をしたのであった。


シュエウーミン別館外人用僧院





画像出典
サンクトペテルブルク Сергей Горбачев



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  最終更新日 2023.12.31

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