【ウ・テジャニヤ長老の名言 第9集】苦しみは現実なのか、概念なのかを理解する名言集

2022年4月30日土曜日

名言集

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自宅で一人でできる瞑想法 

ネットの普及で、テーラワーダ仏教と巡り合い、自宅で瞑想実践をするようになりました。

先生に師事しなくても、求めれば正しい情報を得られる時代になったのですね。

テジャニヤ長老の言葉はどれも実践的で、一人で修業する私に多くのヒントと力を与えてくださいます。

ネットを通じて、多くの方に長老の言葉が届きますように。

    兵庫県/金 靄子(アイコ)さんより



 ャンマーのシュエウーミン瞑想センターの指導者であるウ・テジャニヤ長老は「今や瞑想修行は正しい情報さえあればどこにいてもできる時代になった」という事で、マインドフルネス瞑想についての情報を出版物のみならず、インターネットを使って世界中にどんどん発信しています。


しかし、これができるのは実はマインドフルネス瞑想や他の集中力を使わない気づきの瞑想法だけであって、普通の集中力を使う瞑想法はどんなにネットが普及しても、相変わらずちゃんとした指導者の元で行うよう注意を喚起し、独習を勧める事はありません。


これは集中力を使う瞑想法は、初心者が一人で行うには危険が伴う方法である事を意味しています。いや、そればかりか瞑想センターでちゃんとした指導者の元で行ってすら危険な目に遭う場合もあります。


というのも人間の心というのは、集中力がついてくると記憶をコラージュして様々な幻覚を創ってしまう性質があるからです。


瞑想中に「お化けが見えた」とか「黄金の仏陀が見えた」などと呑気な事を言っている分にはまだ笑い話で済むのですが、恐ろしいのはいわゆる電波を受信してしまう人が出る事です。


私は実際に突然「〇✕神を名乗る存在が交信してきた」と言い出した人や、凄いのになると「〇〇県某所の500メートルの地中には未だ発見されていない地底湖が眠っていて、その水はリウマチやアトピーに効くから掘り出して温泉をやれというお告げを受けた」などと言い出した人を見ています。


このような人が出た場合は、直ぐに病院に連れて行かなければ取り返しのつかない事態にまで発展してしまいます。


あるオーストラリア人女性は、自身が所属するシドニーの仏教協会のメンバーの中からゴ〇ンカ氏のリトリートに参加して「受信者」になってしまった人や、パ〇瞑想センターに行って受信してしまった人が出たため、集中の瞑想は怖くてできないと言います。


受信者までいってしまうのは、100人に1人いるかどうかのごく稀なケースで、誰もがそうなるという訳ではありませんが、一応は集中の瞑想を独習する以上は、そのリスクの大きさをあらかじめ知っておいた方がいいのかもしれません。


しかしながらウ・テジャニヤ長老の説くこのマインドフルネス瞑想ならば、ほとんど集中力を使わないため、正しい情報さえあれば一人で危険なくできるようになっています。この安全性こそがマインドフルネス瞑想の利点であり、この安全性があるからこそ、今の時代のニーズに合わせてネットでどんどん普及できるわけです。






修行者

怒り💢が止まらない時は気づいていられません。


長老

問題に直面し、思考や感情に囚われている時こそ気づきは重要になる。怒りが止まらないからと、怒りの思考を続けてはならない。心を一旦呼吸に置き、怒りをやり過ごして、怒り狂った思考を止めた方がいい。




怒り狂った思考を止める事はやさしい事ではない。

だがそんな時こそ気づきを維持し、思考や感情に巻き込まれないようにすべきだ。

呼吸を心の置き場にし、考えたり怒ったりしたら直ぐ呼吸に戻る事を繰り返せば、怒りはやり過ごせる。

怒りの観察は自身との闘争のようなものだ。




修行者

気づくのと考えるのとどちらが多いか知る方法はありますか?


長老

心が認識している以上の事を考えると貪欲さや怒り、嫌悪感は増大する。つまり気づくより考える事が多いと貪欲さや怒りが増える。それは非常に明白だ。自分でチェックするといい。




修行者

瞑想で心の痛みを見始めると自由に向かっているような気がします。心の傷からの考えから解放されるからです。しかしそれは一貫してではありません


長老

その自由さは気づいている感覚だ。悲しみが生じても気づきのお陰で観る心が悲しみの影響を受けずに観ていられるからだ



たとえ気づいていても、心の痛みや悲しみがなくなる事はない。

しかし気づいている事によって、それらの苦しみに悩まされる事はなくなり、影響を受けずに観ていられるようになる。

気づいていれば苦しみは悪化される事がない事を知る。それが自由の感覚になっている。




修行者

戦争は現実ですか?概念ですか?


長老

「戦争」というのは思考が作った物語だが、その思考の働き、機能自体は現実だ。例えば思考を音だとすると、音自体は現実で、それを「歌」とか「音楽」などと考えると概念になる。出来事自体は現実でも「戦争」と考えると物語になる。



私たちの感情は概念や物語によって生じる。概念を観ると、それが心に与える影響がわかる。

何かを見て美しいと思えば喜びが生じ、醜いと思えば嫌悪感が生じるからだ。

つまり概念や物語には、感情の原因となる判断が入っているのだ。

現実のありのままを見ても感情は生じない。






現実と概念を分けて見るとは、例えば呼吸の時の息の感覚は現実だが「吸う、吐く」「膨らむ、縮む」と見るのは概念だ。

現実は瞬間的で明白に体験する事はできないが、呼吸について考える事で呼吸の過程を明白に見る事ができる。

概念は人を惑わすが、現実の体験を支えてもいる。



気づきは新しく気づくたび、瞬間瞬間生滅する真新しい世界を切り開く。

この世界は全く概念もなく意味を持たない世界であり、六つの感覚のシンプルで平安な世界だ。

このリアリティーだけの世界に入るためには、生じてくるどんな対象にも気づくようにしなければならない。



人生の困難と痛みは、概念的世界が提示する意味のために現れる。

つまり私たちが人生の問題に直面するのは、現実の世界である、意味を持たない世界を見失ったからだ。

私たちに必要なのは、その現実の世界に移行する事に気づく事だけだ。



痛みを観察する事で痛みの本質を理解する。痛みとは何か?

誰が苦しんでいるのか?

それは心が痛みに反応しなくなった時に知る事が出来る。

痛みの本質はその反応の仕方にある。

痛みと、痛みに対する反応との相関関係を観れば痛みの本質がわかる。

痛みは心の方にあるのだから。



痛みの観察の成功とは痛みに対する反応がなくなる事を意味する。

痛みがある時は心はどう反応しているか?

反応が増えると痛みはどうなるか?

反応が減ると痛みはどうなるか?

反応が変わるにつれて自身の痛みの見方も変わる事がわかってくる。

ここが重要なポイントだ。






貪欲さや怒り、不安や恐怖を直接観るには、煩悩より強い気づきが必要だ。

少なくとも心の中は、7〜8割の気づきと、2〜3割の不善な心の割合の時に限られる。

5分5分ではかなり難しい。

気づきが十分に強くない場合は、呼吸などの中性の対象を見つめ、気づきを構築するといい。



「私の顔」「私の姿」「私の家」「私の所有物」等、この「私の」という思いは苦しみを引き起こす原因となるが、見方を変えて「誰の物でもなく自然に属する物」として理解すれば苦しみは終わる。

苦しみが消えるという事ではないが、苦しみは妄想が原因である事が理解されるのだ。



瞑想修行をしている人としていない人との違いは、物事の見方にある。

それは「私がいる」「私のもの」「私が怒る」「私が行う」という思いで落ち着かない人と、現実に気づき、心身に起こる現象を自然のプロセスと見て「私」という思いから離れ、落ち着いた状態を保つ人との違いだ。



心がネガティブな時は、貪欲さや怒り、嫌悪感に巻き込まれ、智慧が弱くなっているので、何か考えても本気にすべきではない。

過ちの原因をつくるばかりになる。

そんな時こそ気づきを積み上げ、心の性質を変え、心が落ち着いてから必要な事を考えるべきだ。



私たちはまだ、おかしくなってしまった心を直接変えるだけの智慧を持っていないが、気づく事で妄想や貪欲さ、怒り・嫌悪感から離れ、心を正常な状態に戻す事ができる。

私たちがいつも開発している気づきや智慧は、心が妄想に狂っても、正常に戻るように働きかけてくれるのだ。





躓く(つまずく)のも修行だ。

私たちは間違った態度で修行を始め、徐々に学ぶ。

修行が上手くいかない時は何かいい体験を期待したり、物事に「善悪」や「優劣」の判断や自分なりの勝手な解釈を加えたり、感情を抑圧したりしている。

しかしそれは悪い事ではない。それに気づく事で学ぶのだ。




修行者

世俗での名誉や財産を求める生活は、パラマッタ(究極の現実)から見たらどういうものなのですか?


長老

究極の現実の世界と、私たちの概念的な生活とは遠く隔たっている。瞬間的に生滅している実体のない世界と、全て「私」という概念を中心に展開する幻想世界との違いだ



幻想世界での「私」という幻想を中心とした生活は、一見充実しているように見えるものの老いと死によって抑圧されている。

全く意味を持たない幻想のない現実の世界とは、何の共通点もない。

現実には老いも死も存在しないので、私たちは幻想のない世界に心を向けるべきなのだ。




修行者

「私」という感覚はどうやって感じるのですか?


長老

「私」(知覚と妄想)は好き嫌いが強い時に明白になる。怒っている時や何かを渇望している時に「誰が怒っているのか?誰が欲しがっているのか?」と自問してみる。貪欲さや怒りがある時は「私」を感じるいい機会だ。



不快なものを観て不快さが増す時は、心が正しい態度をとっていない。

正しい態度とはその不快さ、つまり嫌悪感を観る事だが、それができずに対象ばかりを観てしまう時は、呼吸などに移った方がいい。

心が十分に嫌悪感に対応できるようになってから、不快さを観るといい。




修行者

よく瞑想中に気づいた事を確認するのですが、これは思考ですか?


長老

それは思考だが、その場合は智慧による思考と貪欲さや怒りによる思考とがある。確認が自発的である場合は通常は智慧の思考だが、確認が長く、不安や心配が生じた場合は煩悩による思考になる。




修行者

良い気づきを求める事は貪欲さなのですか?


長老

喜びや心地よさを切望して気づこうとすると貪欲さになる。貪欲さが作った「私の気づき」という概念的な対象になってしまう。その時は「もっと良くなりたい、楽になりたい」と切望せず、その貪欲さ、渇望感に目を向ける事だ








修行者

歩く瞑想中に雑念に巻き込まれないようにしたら退屈になりました。そこで「今何をしたい?」と自問したら別に何もしたくありませんでした。そう思ったら退屈しなくなりました。


長老

それは洞察だ。智慧が退屈さという、貪欲さと嫌悪感からの思考に疑問を投げかけたのだ。




貪欲さを満たせないと、それに怒りや嫌悪感をおぼえて退屈さを感じる。

しかし智慧がその真実を見抜いていた。

そうでなければ退屈さから来る思考に圧倒され、瞑想を離れてしまっていた。

それは賢い自問自答だった。

智慧が煩悩のトリックを見破ったのだ。




修行者

私は近くに瞑想センターがないため誰からも瞑想を教わらず本を読んで一人で修行してきました。これで大丈夫ですか?


長老

その情報が正しければ大丈夫。修行を支えるのは正しい情報と考え方だ。今は宇宙の法則と、それに達するための情報は私たちの手元にある時代になった




修行者

一日の終わりに必ず瞑想するようにしていますが、中々落ち着きません。


長老

一日中考えていたのだから座る瞑想を始めても心は直ぐには落ち着かない。まず心が一日に起こった様々な出来事を思い出して興奮している事に気づく事だ。すると10分〜15分で落ち着いてくる。




一日中活動していたら、リラックスすると受動的になって眠くなる。

心は様々な事を思い出しているが、眠気も雑念も気づきの対象になる。

そのままにして取り除こうとすべきではない。

その時心を気づきに向けると、心は落ち着く。

これは気づきの維持によって心を安定させる方法だ。




修行者

仕事から戻ったばかりの重い心でも瞑想できるのですか?


長老

私が在家者だった頃はできていたので大丈夫。疲れて重い心の時はそこから生じる怒りや悲しみの思考ではなく、疲れて重いという感覚、怒りや嫌悪感を観るのが正しい態度。改善を期待せずにただ気づいてるように







修行者

貪欲さや怒りのままに生きるのが自然で、自由ではないのですか?


長老

私たちは貪欲さや怒りによって束縛され、奴隷のように自由のない状態でいる。どれだけ得ても決して満足する事のない堂々巡りの不満の衝動に振り回されているのだ。これが様々な苦しみを引き起こす。



だが世俗諦の概念的世界で貪欲さや怒りが問題になっても、勝義諦(パラマッタ)の現実の世界は違う。

現実の世界では貪欲さも怒りもただの自然だ。

私たちは心によって投影された世界から、その現実の世界へと心を切り替えなければならない。

そのために必要なのが気づきなわけだ。



瞑想中は心地よい事でも不快な事でも「何が起ころうともそれに気づく事の方が大事」と思っているうちは心は貪欲さや怒りから解放されている。

しかし悲しみや痛みなどの不快な事を変えようとすると、逆に束縛される。

だがそんな時は気づきに注意を向けると、また自由になれる。




修行者

考えている事をそのまま口に出すと誰かを傷つける事がわかりました。だからいつでも気づいている必要があると思います


長老

心とは気づきがないとかなり危険なものだ。しかし十分な気づきがあれば心の中で起こった事が有害か有益かがわかり、それをどうするか選択できる




心の中で起こっている事に気づいていないと、心が危険な事を考えたり実行しようとしたりしている事がわからない。

そしてそれをそのまま行って失敗する。

他人を傷つけたり、後で後悔するような行いをしたりしてしまうのだ。

しかし気づきがあればそれを行うかどうか選択できる。




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  最終更新日 2023.12.31

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