J氏 アメリカ人 20代 男性
とにかく親切なJ氏が、マサチューセッツ州ボストンからはるばるミャンマーのS瞑想センターまでやって来たのが2018年11月。彼はその前はタイで出家して4年間修行していたという。そのため頭は最初から綺麗に剃られていた。
何しろJ氏は慈悲心の権化のような人物なので、彼の前で迂闊な事は言えない。例えば私は彼と一緒にコーヒーを飲んでいた時、うっかり
「やっぱりネスカフェは旨いね。香りもいいし、格調高い」
などと言ってしまった事がある。というのも私は、普段はミャンマー製のミルクと砂糖が入って1杯分10円程のインスタントコーヒーばかり飲んでいたので、久々にネスカフェを飲んだら、いつものとずいぶん味と香りが違ったため、つい感動してしまったのだ。
それから数日後、J氏と一緒にタクシーに乗り合わせてダウンタウンのショッピングモールまで買い物に出かけた時の事だ。買い物を終えて帰ろうとしていたら、彼がアメリカの某コーヒーチェーン店のコーヒーを買ってきて私に差し出した。
「熱いうちに飲んでよ」
せっかくだからと思って、その場でプラスティック容器の飲み口を開けて一口すすると
「ネスカフェとどっちが旨い?」
と聞いてきた。どうやら彼は、ネスカフェで感動した私を見て不憫に思ったらしい。
また、別の日にJ氏とヒマワリの種を食べていた時の事だ。このヒマワリの種だが、日本ではあまり売られていないが、海外では手頃なナッツとして良く食べられている。
「このヒマワリの種って美味しいけどさ、殻を剥くのに手間がかかる割にナッツが小さいから、割に合わないんだよね」
などと、またしても私はJ氏の前で迂闊な事を言ってしまったのだ。
それからまた数日後、J氏から何やら透明な袋に入ったものを渡された。
そこにはアメリカのスーパーマーケットチェーン店の自社ブランドのヒマワリの種が!しかも全部殻を剥いてある!!
「ミャンマーの次はスリランカに行くから、家に連絡してガイドブックとか必要なものを送って貰ったんだ。ついでにこれもキミに食べさせてやりたいと思って送って貰った」
ガ~ン!!
何だかそこまでされると嬉しさを通り越して恐縮してしまうではないか。
更にJ氏は私が熱を出してダウンした時も、食事を運んでくれたり、薬を貰ってきてくれたりして、献身的に介護してくれた。
しかもそのように接するのは私にだけではない。宿舎にいた修行者全員にやっていた。誰に対してでも惜しみなく持っているものを与え、まるで奴隷が女王様に、あるいはメイドが旦那様に仕えるかのように尽くしていたのだ。
そんな訳で、いつしか私はJ氏の事を“鬼のように親切な奴”と思うようになっていった。
S瞑想センターの宿舎
そんなJ氏はその時27歳。地元の大学を卒業後、一旦は医療機関に勤めたものの1年で辞め、瞑想修行のためにタイに渡ったという。一体何が彼を修行の世界に導いたのか?
「12〜3歳の頃からかな、気がついたら何かが違うんだ。何をやってもしっくり来なくて自分が自分じゃないような気がしてしょうがない。何かしなくてはならない事があるような、それなのに何をやったらいいのか判らない。ずっとそういう感覚に悩まされてきたんだ。なぜしっくり来ないのか判らないし、自分が何を求めているのかも判らない。だから必死でアレコレ探したけど何も見つからない。だから焦ってしょうがない。ちっとも心に余裕がない」
何と!聞いてビックリ!J氏は今の姿からは想像もつかないような苦悩の少年時代をおくった人だったのだ!
「中学、高校時代はこんな事考えてるのは世界中で俺だけかと思って孤独だったんだ。それで凄かったよ、いつも下向いて考え込んでばかりで、思い詰めたりもして」
まさに孤独と絶望の青春!ではそんな苦悩の少年Jがどうやって瞑想を知ったのか?
「大学でマインドフルネスの講義を受けた事があって、それがきっかけで瞑想を始めたんだ。そしてその時の先生に自分の状態を相談したら、アイデンティティ・クライシス(自己同一性の危機)じゃないかという事で、セルフ・コンパッションを高める瞑想を勧められたんだよ」
アイデンティティ・クライシス?
実は私もその時その話を聞いて、J氏の言う事が痛いほどよく判った。なぜなら私にも彼が言うのと同じ、自分が自分ではない感覚があったからだ。それは私だけではなく、ミャンマーまで修行に来る人々の多くが感じている感覚でもある。
それはまるで性同一性障害のような感覚とでも言えばいいのだろうか?J氏も私も性的にはノーマルだが、まるでLGBTQの人々のように自身に違和感をおぼえてしかたないのだ。そのためしっくりくる自分を求めて瞑想修行に入らざるを得なかった。
「確かに仏教や瞑想では自分という感覚が問題を作っていると言うからね」
そう、瞑想の世界では、人は皆自分ではないものを自分と思って執着し、苦しんでいると言う。だから自分が自分ではない感覚があるのは当然の事であると説明されるため、我々はここにこそ問題を解決する糸口があると思って修行者となったのだ。
そしてJ氏同様に孤独で、世の中の何処にも居場所がないような気がしてミャンマーまで来た。
ミャンマーの瞑想センターは、そんな感覚を持つ修行者たちが世界中から集まってきて体験を共有し、意気投合する場所でもある。
だが、こう言うと
「何っ?仏教では無我と言っているんじゃないの?自分ってのは無いって言ってるんじゃないのか?自分探しってのは仏教で言ってる事と矛盾しているじゃないか!」
と反論されそうだが、仏教では決して自分は無いとは言っていない。やはり何か自分とするものはあるのだ。だが、それはこの心身を支配する主体があるという意味ではないし、自分という実体があるという意味でもない。何らかの機能というか、働きを自分とするという意味だ。
そして仏教の瞑想指導者たちは一様に、全ての人は自分ではないものを自分と思って執着し、自己同一性を喪失していると言う。心の病も瞑想の世界では全て自己同一性の問題ととらえる。だから自分と思って執着しているものを手放して本来の自己同一性を取り戻せば、もはや心が病む事はなくなると説く。
「そうかアイデンティティ・クライシスって言うのか。でも、それを言ったら全人類がそうだという事になるな」
私はJ氏の話を聞いてそんな風に思った。
セルフ・コンパッション
セルフ・コンパッションの提唱者クリスティン・ネフ博士
自己同情とは、自らの欠点、失敗、または人生におけるさまざまな苦しみに直面した時に、自分自身への思いやりを実践することである。クリスティン・ネフの定義によれば、自己同情は「自分への優しさ」、「共通の人間性」、および「マインドフルネス」という3つの主要な要素で構成されている。〜ウィキペディアより
では、J氏がまず最初に大学でマインドフルネスの先生から指導を受けたというセルフ・コンパッションを高める瞑想とは、一体どういうものだったのだろう?
「最初に自分へ思いやり向ける様々なエクササイズがあって、自己肯定感が十分に高まったら、その思いやりを今度は他の人々へも向けていくという方法さ。仏教の慈悲の瞑想にそっくりだね」
J氏の説明によれば、セルフ・コンパッションを高める瞑想の方は、まず最初に仏教で言う慈悲の瞑想をやり、自身へ慈悲を送る事から始める。そこには自身の幸福を願うとともに、かつての至らなかった自分を受け入れて赦してやる受容も含まれているという。
そしてその慈悲を今度は身近な人々に送っていく。家族、友人、周囲の人々、それから更に慈悲の輪を広げ、知ってる人にも知らない人にもどんどん無差別に送っていく。それができたら今度は人間だけでなく、ペットや庭の木にいる鳥や、上の方にいる生き物、下の方にいる生き物、東西南北のあらゆる方向にいる生き物たちに送っていく。
それができたら次は、その慈悲を使ったマインドフルネス瞑想に入る。慈悲を使うとは全てを受容する事。見えるもの聞こえるもの感じるもの、雑念、痛み、心身に起こってくるもの全てを「はい」と受容するのだ。
たとえ不快な感覚や感情であっても、とにかく一旦は受容する。たとえ嫌いな人を思い出しても、過去の至らない自分を思い出しても、とにかく一旦は「はい」と受容する。そこには嫌な人や自分の嫌な面への赦しが含まれている。つまり受容するとは同時に手放す事でもある訳だ。
「これやると凄くいいよ。受容しながら物事を見ると「優劣」とか判断しなくなるんだ。だからコンプレックスがなくなるし「俺の」とも思わなくなるから物惜しみもなくなる。また自己嫌悪と自己愛から来る自身への葛藤もなくなってずいぶん楽になるしね。妄想も全然しなくなるし、それまでエゴのフィルターを通して物事を見ていたのが、フィルターがなくなってありのままに見ている感じがする」
全てを受容する!なるほど!それでJ氏は誰に対してでも鬼のように親切に接していたのか!
しかし疑問もあるぞ。もし無理難題を持ちかけられたらどうするんだ?借りたものを絶対に返さない奴から金の無心をされても受け入れると言うのか?
「そういう時は一旦は「はい」って受容するけど、次に「でもね・・・」って断るんだ。そうすれば角が立たずに断れるから人間関係が良好に保たれる。いつもそういう風にするとトラブルが減って凄く人生が楽になるよ」
なるほど!その手があったか!それならもう人間関係では怖いものなしになるな!確かにそれだけの効果を体験したら瞑想なしではいられなくなる!
「そう、だからあとはこの方法で自己同一性を回復すればいいと思ったんだ!」
それからというもの、J氏は自分が一体何を自分と思って生きているのか探求するようになったという。そしてこの心身の他にはセルフイメージなどの、自分がこれまでの人生で創り上げてきた自身についての物語を持っている事に気づいた。それから更にそのセルフイメージを掘り下げてみると
「俺は完璧だ!偉いんだ!カッコいいんだ!」
という声が聞こえた。
「な、何だって!俺は自分をこんな風に思っているのか!?」
最初は信じられなかった。あまりにも現実離れした子供じみた考え方ではないか。ここまで来るともはや高慢さを通り越して滑稽と言うしかない。
しかし他人から間違いを指摘されて怒るという事は、自分は完璧だと思っている事になるし、ぞんざいに扱われて怒るのも、自分を偉いと思っている証拠になる。また、容姿をとやかく言われて気を悪くするのも、自分をカッコイイと思っていなければ有り得ない事だ。
という事は、やはり実際に自分はそのようなタワゴトにしがみついているという事になる。それ以外の何物でもない。受け入れ難い話だが、これも受容しなければならないではないか。
「間違いない。俺はタワゴトを盲信しているんだ」
そしてJ氏は、長い間自身を苦しめ続けてきた、自分が自分ではない感覚の正体を知った。
なるほど、そうだったのか。それを聞いて私はJ氏が仕事を辞めてまでタイに渡った理由がよく理解できた。
慈悲の恩恵
「オマエのためにやってやってるんだぞ」
「俺は世の中の役に立ってるんだ」
私の場合は慈悲だとか愛だとかのたまう人を見ると、どうも偽善的と言うか、大きなお世話みたいな要らない事を押しつけられるような気がして敬遠しがちになる。そしてそのような人というのは、決まって自分を美しく善良な人間のように思い込んでいるのだ。
だがJ氏といても、別にそんな気持ち悪さはなかった。それは彼は全く見返りを求めたり、恩着せがましかったりする事がなかったからだ。そもそもそ彼が慈悲を送るのは、彼らとは目的が違う。
「心を慈悲モードにして全てを受容する態勢でいると、自己同一性を回復できるんだ。普段は『ああなりたい、こうなりたい』という切望の固まりみたいな衝動に心身を支配されていて、タワゴトのようなセルフイメージもここから来てると思うんだけど、慈悲モードになるとそれが消えて、自分を取り戻したような気分になるんだ。自分という感覚が消えてしまうんだよ。そして、いつでも今の瞬間にいられるようになるんだ」
なるほど、そうやってJ氏は念願の自己同一性を回復したのか。そのためにタイで4年修行したと。では彼が慈悲行を行うのは他人のためではなく、そうする事で自分が楽になるからという事か?まあ、確かにそれなら見返りも何も要らないな。
しかし皮肉な事に、J氏が他者に対してそのように接すれば接するほど、誰もが彼に感謝せずにはいられなくなる。そのため彼はいつもお礼として誰かから差入れを貰っていた。
ある50代のベトナム人女性は、J氏をすっかり気に入ってしまい、朝食後は毎日彼に保温水筒一杯分のコーヒーとお菓子とを渡し、まるで我が子のように世話をやいていた。また、この時はこのシリーズ第38話に出てくるマレーシア人のS氏もいたのだが、彼に至っては、御馳走すると言ってJ氏を高級中華料理店へ招待したりもしていた。
「アヒルの丸焼き食べてきたよ😅」
そんな感じでJ氏は、瞑想センター内で絶大なる信頼を獲得していったのであった。
粗探しする修行者
「オマエは日本人か?日本人は英語をトツトツとしか話せないがオマエもそうなんだろ?あと食事のマナーも悪いな。俺は今まで何人もの日本人を見てきてんだ、よく知ってるだろ?ヘッヘッヘッ」
そういう風にJ氏があちこちに慈悲心をまき散らしていたちょうどその頃、宿舎に30代ぐらいの何やら口の悪いミャンマー人が入ってきた。口が悪いというのは初対面でいきなりそんな事を言って私をバカにしてきたからだ。
「何がトツトツだ!オメーだってトツトツじゃねーか!偉そうに!しかも汚い喰い方をするミャンマー人に食事のマナーについてとやかく言われる筋合いはない!会うなりマウント取ろうってのか?一体何様なんだオメーはよ?」
そして口には出さないものの、ムッとしながら不審者でも見るようにしてその新参者の目を見て驚いた!
サイコパスとかソシオパスの類いだ!
人相が悪いなどというものではない。顔の筋肉がほくそ笑みと憎しみとが混ざったような表情で固まっている。
「顔つきは心の表われだ!コイツいつもそんな感情でいるからそうなったんだ!こんな奴に関わったらロクな事にならない!」
そう思って私は、もう奴に対して何も言う気にはなれなかった。
「それにしても凄い目つきしてますね」
そして、その時は宿舎にもう一人の日本人がいた。このシリーズ第28話に登場するM氏がそうだが、彼も私と同じ事を思ったらしく、私にそう耳打ちしてきた。
「アイツはいつも俺の事をジロジロ見てるんですよ。食事中でも瞑想中でもずっと遠くからでも見てて気色悪いです。粗探しでもしてるんじゃないでしょうか?食事の後にマナーが悪いとか言ってきた事もあります」
そして奴は何故か判らないが、我々日本人だけをターゲットにして、執拗に粗探しをしては突っついてきたのだ。宿舎内には他にマレーシア人たちやベトナム人たち、韓国人たちもいたのだが、彼らには全然目もくれず、日本人だけを狙ってくる。ウザいったらありゃしない。
では、ここで粗探し男が言っている瞑想センターの食事のマナーの問題について簡単に触れておきたい。結論から言えば瞑想センターでは、修行者たちは基本的に西洋風のマナーで食事をしているので、日本人が日本風で食べるとマナーが悪いように見られてしまうというだけの話だ。
例えば、瞑想センターの朝食というのは、大体何処でも麺料理が相場と決まっているのだが、これを食べる時はまず、麺の器をテーブルに置き、食べる方の腕だけテーブルの上に乗せ、もう片方の腕は必ずテーブルの下に下げておかなくてはならない。そしてその体勢のまま音をたてずに麺をすする。スープを飲む時はひたすらレンゲやスプーンで一口ずつ掬って飲む。そのやり方でずっと気づきながら食べ続けるのが瞑想センターでの正しい食べる瞑想のやり方だ。
しかし日本人は幼い頃に「食べる前にイタダキマスしなさい」とか、「食べる時は片手でちゃんとお茶碗持ってなさい」などと躾けられているので、ついつい瞑想センターのマナーに反した事をやってしまうという訳だ。「イタダキマス」を言うのは別に構わないのだが、麺を音をたててすすったり、手で器を持ってそれに口をつけてスープを飲んだりすると、周囲の人々に驚かれる事になるので注意しなければならない。
だが、私はもう瞑想センターでの食べ方に慣れていたので、いくら奴が粗探しして来ようとも、付け入る隙は与えないという自信があった。だから食事中に奴がいくらジロジロ見ていても気にせずに食べていた。
そしたらある日、私が朝食を終えて食器を洗っていると、そこへ奴が来て言った。
「オマエやけに喰うの早いな。ちゃんと気づきながら喰ってんのか?エ~?」
「ハア?」
何だって?自分の方ではなく、ジロジロと他人の方にばかり注意を向けている奴が、ちゃんと気づいてるかだと?オマエは自分にそんな事を言う資格があるとでも思ってんのか?頭どうかしてるぞコイツ。
「あ、そうか!」
そこまで考えて気がついた。そうだ!マジで脳がどうかしているんだ。扁桃体が働いていないとか聞いた事がある。つまり正常ではない奴なんだ。だからおかしな言動ばかりする。やっぱり相手にしない方が賢明だ。こんな奴の言う事を真に受ける必要はない。しかし何でそんなに日本人にだけ絡んでくるんだ?何か恨みでもあるのか?
「日本の映画やアニメ面白いよな!俺好きなんだよONE PIECEとかNARUTOとかよ!だから日本人と友達になりたくてさ」
ハア?何だって?友達に?嫌われたいんじゃなくて?マジで脳が正常に機能してないぞ!コイツの言動は理解不能!
そんな訳でそれからというもの、M氏も私も粗探し男が何と言って来ようが、無視を決め込んだ。それでも私は奴が「よお!」と言ってくれば手ぐらい振ってやったが、M氏は完全無視を貫いていた。
異常者を受容するJ氏
すると今度はその粗探し男、J氏を見つけて、彼にアレコレ言ってまとわりつくようになった。
「へえ、あんたアメリカ人なのか?俺、アメリカの音楽や映画が好きでさ」
そんな風に言われたら誰でも受容するJ氏の事、当然奴の事も受け入れるに違いない。しかしそれは危険だ!あんなタチの悪い奴はいずれJ氏をやっかんで足を引っ張ったり、悪口を言いふしたりするようになるぞ!
「J氏、ダメだそんな奴に関わっちゃ」
と、心配したのも束の間、粗探し男はJ氏に対しては何と!最大限にリスペクトしているではないか!ヘコヘコしてゴマをすりまくっている!
「あんたいつも修行熱心で偉いねえ。食事中もちゃんと気づいてるしねえ」
ガ〜ン・・・・・
「ずいぶん我々に対する態度と違う・・・ブラウン・ノーザー(鼻に糞をつけた奴=他人の肛門にキスする奴=ゴマすり野郎)になっているじゃないか・・・・あの野郎」
いや、舐めた態度で横柄に接するのは我々日本人に対してだけではない、その時宿舎にいた韓国人やベトナム人、マレーシア人と、粗探し男はアジア人たち全てを虫けらのように扱っていたのだ。だが一方でアメリカ人やイギリス人、カナダ人などの欧米人に対しては卑屈なまでに最大限のリスペクトを払っていた。
「あれじゃあまるで人種差別じゃないか?アイツもしかして自分を白人だと思ってるんじゃないか?生粋のミャンマー人のくせに」
だからM氏などはそんな風に首をかしげていた。
「ずいぶん対照的ですよね?あの二人」
先出のマレーシア人S氏も粗探し男がJ氏に付きまとっているのを見て、不快そうにそう言った。
対照的と言うのは、自分を判っていて慈悲モードで誰にでも謙虚に接するJ氏と、自分を白人だと錯覚して高慢になり、アジア人たちを露骨に見下し、欧米人たちに媚びへつらう粗探し男の自己同一性のあり方だ。
「そうだ、奴が異常なのは自己評価の高さだ。誰かに言われたのか、それとも自分で妄想しているのか判らないが、全然実態とはかけ離れた尊大なセルフイメージを持ち、それを自分と盲信している。だから我々を見ると欠点を粗探しして突っついて優越感を得ようとするのかもしれない。なぜならそれをやる事で、さも自分が偉いように錯覚できるからだ。そしてまた自己を過大評価しては負のスパイラルに陥る」
奴の粗探しは狂ったセルフイメージを維持するためのものだったのか・・・狂ってる。本当に狂ったセルフイメージを信じてしまっているんだ。
「アハハ、俺トム・クルーズが好きでさ、彼が出てる映画はほとんど観てるよ。彼とは外見だけじゃなく、性格的にも似てると思うんだよね、勇敢で優しくてカッコよくてさ、本当に俺そっくり。そう思わない?」
我々がそんな風に見ているとも知らず、粗探し男はJ氏と親しくなり、会話が盛り上がって嬉しそうにしている。だが、そんな粗探し男の有り様を見た時、私は人間にとって自己同一性というものがいかに大事なものであるかを心底痛感してしまった。
一方でJ氏の方は、そんな時でも冷静に粗探し男に対応し、奴の言うタワゴトを一旦は受容しておきながら、
「うん、確かに似てるところがあるね。でもそれは、キミもトム・クルーズもあまり背が高くないというところだけじゃないかな・・」
と、軽く一蹴してのけたのであった。